志賀郷の向田観音のこと−綾部市向田町− |
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綾部市の北、由良川の支流・犀川の上流に向田という町がある。JA舞鶴線梅迫駅から10キロ余。そこは古代の吾雀(あすすき)郷の内にあって「茗荷占い」(阿須須岐神社)や「筍占い」(篠田神社)など農事の古俗が残る純農村地帯である。
毎年、8月17日に「向田の観音さん」で知られる長福寺の聖観音菩薩が開帳になる。観音さんは眼病に霊験あらたかと伝えられ、往時には地元丹波はもとより若狭・但馬方面から数千の参詣者が押し寄せたという(綾部市史)。
向田観音の開帳は子の刻(午前零時)と伝えられる。しかし、今は向田おどりの謹行後、午後9時半からご開帳。開帳時間は20分ほど(写真上)。近在の禅宗寺院の僧侶数名によって大般若経が転読されるなか、聖観音はロウソクの灯りに映し出されなんともありがたく、参詣者が堂前で合掌する姿はいまも昔も変わるはずもない。
境内は、修験者によって点けられた焚き火が明々と燃え護摩供養が行なわれ、堂奥で聖観音が郷の歴史を飲み込んで衆生を静かに見つめておられる。午後9時50分ころ厨子は導師によって閉じられた。
向田観音堂の創建年について、久安年間(1145〜1150年)とする説がある(綾部市史)。聖観音の像立年は不詳であり、仔細考究の知見も見出しがたい。
地元に明智光秀の丹波平定のおり寄手の大将岡部山城守に戦賞として聖観音が与えられ、岡部は聖観音の給侍になったという伝承がある。像立年と直に関係はないが、丹波平定が成った天正7(1579)年ころにはすでに聖観音が存在した傍証にはなるだろう。
聖観音菩薩のこと
寺伝は、聖観音はもと志賀郷別所の草庵にあって向田観音堂に移された、また楊谷寺(伝・大同元(806)年創建。京都府長岡京市)の本尊・十一面千手観音立像と同じ木で彫刻されたと伝えている。同千手観音は解体修理が行なわれていて、体内記録から承元4(1210)年に施入されたことがわかっている。長福寺の聖観音菩薩像が楊谷寺のそれと同木であると信じるならば、その像立はちょうどこのころではなかったか。上半身に条帛、下半身に裳を着け、頭部の宝冠台に変化面が見える。台座は蓮弁の上部に蓮肉がのぞいていて蓮華九重座をなすものと見え、ことのほか豪華である。光背も立派なもので金色の光を失っていない。私には楊谷寺の十一面千手観音立像の像立に相前後して長福寺に施入されたか、件の願成寺から長福寺に移されたのではないかと思うがどうだろうか。
さておき綾部市には「綾部西国観音霊場巡拝」の好風がある。番外を含め39霊場がもうけられ、いまも昔も倒れた子をやさしく抱き起こす母親にも似た観音の大悲にすがり、救いを求める人がいる。霊場の朱印に大悲閣或いは大悲殿と記す寺院が39寺中、21寺ある。
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古代の志賀郷の寺社事情をみると、12世紀ころ郷内の向田などに新熊野神社の荘園・吾雀(あすすき)荘が置かれ、妙法院が領家であったことが康永3(1344)年の妙法院文書からわかる。向田の観音さんは或いは妙法院から与えられたものかもしれない。
さて、これより先の10世紀中ごろ、志賀郷金河内の阿須須岐神社(式内社。茗荷占い)、篠田の篠田神社(筍占い)が鎮座し、向田観音堂の隣村別所の願成寺が開創されていて、犀川の北岸一帯は寺社が群立する高い精神文化の香りに包まれていたことであろう。−平成29年8月− |
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