奈良
法泉寺石塔婆(十三重塔)−京田辺市草内南垣内−

 京都府の南部に京田辺市が所在する。すり鉢のような京都盆地の南縁部のなだらかな斜面上に住宅地や耕地が混在し人口が集中する。市の南部は大方、山地をなし深い森に覆われ、市の東部を木津川が北流している。この地方は古くから木津川の水運や農業生産で栄え、なだらかな丘陵上に前方後方墳など特異な古墳や月読神社、棚倉孫神社などの式内社、或いは大御堂観音寺、酬恩庵(一休寺)、法泉寺などの古刹が所在する。山間の普賢寺谷は百済系渡来人が居住し養蚕、機織を生業とし、奴理能美(ぬりおみ)の一族は朝廷に絹を献上し、調首(つきのおびと)の姓を得たといわれる。継体天皇が樟葉宮から遷都して5年間都とした「筒城宮」も渡来人の財力をえて普賢寺谷辺りで営まれたのだろう。同志社校内に築かれた小丘に筒城宮址、継体天皇皇居古址などの石碑が建っている。大学事務局窓口で申請すれば見学可能かと思う。
 法泉寺は平安初期には存在したようであり、その古い寺歴や枯山水庭園、石造の十三重塔(鎌倉時代)などで知られる。寺は草内小学校の道ひとつ隔てたところにあり、道路側から約6メートルの石塔婆(写真上)が目に入る。石塔婆の願主は大和西大寺の叡尊。水防の要所に放生池をつくり石塔婆を建てた人であり、その一つが法泉寺の石塔婆と伝えられる。叡尊の活動期と石塔婆記銘の建立年に齟齬がなく、また寺の近くに木津川が流れ、水辺近くに広大な水田が集中するこの地域は、長い水害との闘いの歴史があったものと推認され、叡尊の水供養の動機となったのだろう。造立年は弘安元(1278)年。大工猪(伊)末行の記銘が台座にある。塔婆の初層と最上層に一部破損があるが、典型的な鎌倉塔の美しさを失っていない。軸部の4面に四方仏のレリーフがある。岩船寺十三重塔、浮島十三重塔、談山神社十三重塔など鎌倉塔と塔姿が似ている。それらは記銘などからも伊行末自身或いはその後裔により刻まれたものと思われる。奈良時代から連綿として続いた石塔婆の製作につき、宋から渡来し石工として活動した伊末行とその後裔の偉業を思わなくてはならない。−平成23年6月−


栄山寺七重塔
(奈良時代・奈良)
於美阿志神社十三重塔
(平安時代・奈良)
宝積寺九重塔
(鎌倉時代・京都)
岩船寺十三重塔
(鎌倉時代・京都)
般若寺十三重塔
(鎌倉時代・奈良)
浮島十三重塔
(鎌倉時代・京都)
談山神社十三重塔
(鎌倉時代・奈良)
笠置寺十三重塔
(南北朝時代・京都)