由良川の音無瀬橋のたもとに水天宮(稲荷神社と合祀。写真)が鎮座する。そこは広小路通りの東端、由良川を臨む堤防上にある。神前の石碑によると、水天宮は「水難除守護神トシテ又安産守神トシテ…堤防上ニ鎮座在…」とある。また稲荷神社は、「…堤防上ニ鎮座在リ火難徐守神トシテ…崇敬ス」とある。
碑文は神社の由緒仔細を欠いているが筑後水天宮(全国の水天宮総本社)を勧請したのであろう。同社は壇ノ浦に滅んだ平氏所縁の神社.。水難除け、安産の神として信仰され、久留米藩主有馬豊氏によって社殿が造営(再整備)された。
有馬豊氏の前任地は福知山。福知山藩第5代藩主(慶長5(1600)年〜元和6(1620)年)だった。秀吉や家康の知遇を得て小藩の家老から福知山藩主(8万石。在任中に加増あり)に昇任した。さらに、豊氏は外様であるにもかかわらず久留米藩主(21万石)にまで上り詰め、大大名然とした逸材だった。
豊氏は福知山に在在った20年間に水害の恐ろしさを知ったのであろう。水難対策は豊氏の頭痛の種であったはず。転封先久留米には大河筑後川がある。由良川の水害がダブって見え水天宮の信仰に火がついたのだろう。
しかし福知山水天宮について、福知山のだれがどのような経緯から久留米から勧請するに至ったのか道筋がよくわからない。久留米藩士中の丹波衆が仲介し、福知山水天宮の鎮座地(柳町)の町屋衆がその分霊をもらい受けに行ったものかどうかすら判然としない。
柳町(江戸中期に上柳町と下柳町に分割された)の河原には、西廻り廻船が拓かれる前から、下船渡(しもせんど)と呼ばれた湊が形成され、高瀬舟による舟運が存在していたと考えられる。水害はもとより航路安全の願をも込めて久留米水天宮の勧請に至ったのではないだろうか。明治期に舟運が途絶えるまで柳町は問屋、商家、料理旅館などが立ち並びその名声は上方にまで聞こえた街だった。
さて福知山在任中の藩主豊氏の評判はそれほど芳しいものではなかったようだ。年貢の基準となる拝領石高とは別に藩独自の検地によって石高を積み増して年貢を課すなど厳しい財政運営を行っていたのだ。一方、江戸では藩邸内に祀った水天宮を開放したことから安産祈願や子宝を求め参拝する者が多く、豊氏は「情けの玄蕃」(豊氏は叙位により‘玄蕃頭’を賜った)と称賛された。水天宮は今日においても東京地下鉄半蔵門線水天宮駅にその名をとどめている。
さて、堤防の整備は水害予防に最も効果があることは今も昔も変わることはない。近年、御霊神社の境内に堤防神社(写真)ができ、堤防を神として崇めている。本邦唯一の神社かも知れない。
今でも由良川流域は洪水の常襲地帯であることに変わりがない。河川勾配の緩い由良川は河床の凹凸にも相当、気を配らねばならない。河床の岩礁の掘削が上下流で洪水の明暗を分ける。また支流の本川への流入角度によっては劇的に本川の水位が上がり内水被害をもたらしかねない。適切な堤防網の構築が求められるゆえんである。
近年の気候変動も重なり、水害の恐怖が丹波人の脳裏から消えることはなく、堤防を神と崇める日も消えることはない。−令和5年8月− |