京都
御手槻(みてつき)神社と何鹿(いかるが)(郡)考−綾部市位田町岩井−
 京都府の北辺、綾部市に御手槻神社が鎮座する。祭神は伊邪那岐命。社は由良川と八田川の合流点から100bほど東方の山麓にある。一間社造りのささやかな社であるが千年以上の歴史の降り積もった延喜式内社。 律令制下の何鹿(いかるが)郡の代表的な社とみられる。道路端から石段を上ると鎮守の森をバックにして本殿が寂としてある。
 御手槻神社について、「式内社の研究」を著した志賀郷氏は、社名は水田村(ミテスキ)→ミテツキと変音したらしい」と言っている。スキは韓語の「村」を意味する。さらに志賀氏は、「この付近から由良川南岸を眺めると、低平な丘と山が続き、何鹿の語源が分かる。アイヌ語で見晴らしのよい所をイカルガという。」と述べ、社名と郡名の語源に言及している。今道路端に住宅や事業所ができ志賀氏が指摘する遠望はきかなくなった。しかし神社下の堤防上に立つと、由良川本流を挟み南方一帯に田畑がひろがり福知山盆地の東半分の農地が見渡せる。卓見ではあるがアイヌ語から郡名にまで言及できるものかどうか、疑問も残る。
 綾部市は沖積平野(福知山盆地)を形成する由良川の吐き出し口に当たる。古来、森林の洪水調整機能が知られていたことは周知の事実。由良川上流で森林地帯を領有した山家藩が下流の諸藩から山年貢を得ていたのもそのような森林機能ゆえの税であった。
 神名帳考証によると何鹿郡の延喜式内11社中2社(綾部市鎮座)を五十猛(いかる)神を奉斎する社としている。いずれも森林地帯にある。私はむしろ五十猛(いかる)神が何鹿(いかるが)郡のおこりとなったと考える方が合理的と考えるがどうだか。
 御手槻神社の東側一帯は律令制下の吉美(きみ)郷だった。吉美は「(きみ)」の当て字。秦氏(秦公(はたのきみ))の支配地の履歴を滲ませる。郷中にわが国屈指の規模を誇る聖塚(多田町)や仏南寺が所在する。仏南寺はその起源すらわからない古寺。国司の調査を受けたことが三代実録に見える。御手槻神社はそのような郷中の歴史的環境の中にあり、秦氏との所縁等々、鎮座の経緯に思いを致す意義もあるだろう。(たち)(綾部市)の赤国神社(延喜式内社)と楞厳寺、三宅の前方後円墳との関係と相似通った疑問がある。なお、元吉美郷内にあった御手槻神社はいま、位田の氏神となっている。その経緯について志賀氏は「吉美の氏神は中世以降は高倉神社となったので、明治初年に隣村の位田に式社を与えたという。」と伝聞を書き記している。
御手槻神社の軒周りの彫刻群

鳳凰(上部)と彫刻群
獅子
 2月某日、御手槻神社に参拝。ちらちらと雪が舞い、うっすらと化粧した石段が古色を誘う。
 唐派風の向拝下の兎の毛通しに、鳳凰を設え羽ばたいている。その奥の棟木の下に鵜が二羽、波間に向かい合わせになって戯れる。貫を挟んでその下で龍がいらかを立て、大きく口を開き、牙をむき前方を睨んで、邪気を払い、顎下で宝珠をしっかり握っている。 
 向拝柱の左右に目を向けると、虹梁と貫が交差する木端に阿吽の唐獅子と象を設え前方を睨んでいる。
 神社の改築時に装飾されたものかと思うが銘板等の資料を持ち合わせていない。神社を奉斎する地域の自然や風土を彫刻に巧みに取り込み、龍や霊獣の在り方等々の作風からみて中井権次一統の作品かと思われる。丹波の一隅に、夢いっぱいのささやかな社がある。−令和5年2月−