浦島太郎と筒川−与謝郡伊根町本庄浜− |
京都府の北部、丹後半島の北端経ヶ岬の南約8キロのところに浦嶋神社(写真下)が鎮座する。祭神は浦嶋子である。平安時代の延長5(927)年に編纂された延喜式神明帳に記された‘宇良神社’とされるヤシロ。浦嶋太郎の故郷、筒川村の故地に建つ神社である。
わが国には、浦嶋太郎の伝説地が実に多い。しかし古代の文献によってその伝説が特定できかつ、多分5世紀前葉の寓話と見られる物語の舞台がそのまま残っているところは伊根の浦嶋太郎が最古、唯一であろう。
日本書紀雄略記に「22年秋7月、丹波国余社郡管川の人、水江浦嶋子、船に乗りて釣す。遂に大亀を得たり。便ち女に化為る。ここに浦嶋子感りて、婦と為し、相逐ひて海に入りぬ。蓬莱山に到りて、仙衆を歴観る。語は別巻に在り」と記されている。別巻は丹後国風土記。逸文が残っていいる。曰く、「・・・水江浦嶋子が女娘と蓬山にゆき楼台輝く宅へ。旧俗を遣れ歓宴をなし三歳、遂に岐路に就く。女娘、玉匣を嶋子に授け、慎な開き見たまひそと曰ふ。本土の筒川郷に到り村里をみるに、人も物も遷ひ易りてよらしむところなし。ここに郷人に、水江浦嶋子の家人はいまいずくに在るやと問ひしに、先世に水江浦嶋子というもの有りて、独蒼海に遊びて、復還りこず、いまは三百余歳を経たりと曰へり。玉匣を撫でて神女を感ひ思びき。ここに嶋子、前日の期を忘れて玉匣を開きしに、即てたちまちにして、芳しき蘭の如きかたち、風雲に卒ひて、蒼天にひるがへり飛びき。涙を払ひて歌ひけらく、「とこよべに、くもたちわたる、みづのえの、うらしまのこが、こともちわたる。」また、神女、歌いけらく、「やまとべに、かぜふきあげて、くもばなれ、そきをりともよ、わをわすらすな。」・・・・とある(筆者の要約。原文に当られたい)。
日本書紀、丹後国風土記とも漢文で記述されており、水江浦嶋子(浦嶋太郎)の呼称が風土記が成立した7世紀当時(和銅6(713)年に編纂に着手)或いはそれ以前、‘水江浦 嶋子’と呼ばれていたのか‘水江 浦嶋子’であったのか明らかでない。
浦嶋神社から東に6キロほど、筒川沿いの道を下ると河口(写真)に至る。海岸線が緩やかに湾曲し、河口の北に防波堤、南は海水浴場になっている。筒川が流れ込むこの入り江が古代の水江或いは水江浦とみられる。周辺は本庄浜の集落。ささやかな漁船が河岸に係留されている。
河口は吐き出された土砂で埋まっているが、風土記編纂当時、河口は現在の位置よりだいぶ内陸部にあって大きな‘江’をなし浦奥からそう遠くないところに宇良(うら=浦)神社が鎮座していたのだろう。
風土記の水江浦嶋子は、このように現地の地理的な様子からみて水江浦の嶋子という主人公の物語であったと考えるのが自然である。しかし、丹後風土記の水江浦嶋子の物語の執筆者である旧の宰伊予部馬養連の流麗な文章とストーリーの面白さが相俟って広く知られるようになると、原文が一人歩きしはじめて‘水江浦嶋子’は‘浦嶋太郎’に置き換えられ、ストリーに脚色が加わりまた、各地の浦嶋太郎伝説地が生まれたのだろう。
それほどこの物語のストーリーの面白さと名文は人々に感銘を与え、日本の説話やおとぎ話の手本となり文学史にも光を放っている。物語を執筆した国司殿は、よもやそのようなことになるとは思いもせず、物語を書きつつ渡来の神仙信仰にわが身の長寿を重ねたことであろう。
水江浦の故地水江浦(本庄浦)から若狭湾を左に見て、海岸沿いの道を約6キロ南に下ると新井崎(にいさき)に到る。ここは徐福伝説を宿す集落。いわゆる「まれびと来訪」の信仰から生じた伝説かと思うが、徐福伝説もまた日本各地に散在する。それにしても大陸との往来の歴史を示唆する伝説がこの丹後半島には随分多い。
雄略天皇は5世紀初頭の実在の天皇。倭の五王の一人に当てられる。このころ倭国と大陸との交流が盛んに行われ、記紀にしばしば渡来人の来朝の記録が記されている。丹後、丹波(8世紀に丹波国を分割し丹後国が成立)に盛んに巨大古墳が造られた時期と重なる。‘浦嶋太郎’という架空の人物を登場させ風土記に記し上進するほどこの地域は先進性に富む丹波丹後の玄関だったと推される。
しかし物語は、浦嶋太郎が煙となって蒼天に飛び去る結末で締めており、遊興の戒めともなっていて、この辺りに当時の世相や国司の役割が偲ばれる。−平成25年5月− |
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