ああ新井崎(徐福伝説の村)−与謝郡伊根町新井崎− |
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京都府の北部、丹後半島の東岸に井根町新井崎(写真上)が所在する。丹後半島の周回道路を離れて、海岸沿いの細い道を北に向かうと、千枚田をなす棚田のはるか眼下に漁港が見える(写真)。徐福伝説を伝える集落である。徐福伝説は鹿児島県・阿久根など全国に散在し、近畿地方では新宮の浦(和歌山県新宮市)のものが名高い。
史記、漢書によると、紀元前200年(日本の弥生時代)のころ、中国・秦の始皇帝の命を受け、東海の蓬莱山に不老長寿の仙薬を求め、童男童女数千人に五穀の種子、金銀を大船を積み、渤海に漕ぎ出した船団があった。徐福である。しかし、除福は再び中国に戻ることはなかった。
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新井崎神社 |
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徐福上陸伝説地 |
この徐福の遭難が、後年日本各地に徐福の漂着伝説を生んだのである。
丹後のそれは、海に漕ぎ出した徐福は易筮によって当地新井崎(にいざき)のハコ岩に漂着したと土地の人。徐福は漂着後、邑長として村人をよく導き死後、神格を得て社(新井崎神社)に祀られた。神社はハコ岩から少し離れた断崖絶壁の岩場に鎮座する。
徐福が求めた仙薬は黒茎の蓬と九節の菖蒲。口碑を石碑に刻み記念碑を建てたという土地の人に伺うと、徐福が探し求めた’にいよもぎ’という黒茎の蓬が新井崎に今も自生しているという。
新井崎は対馬海流(暖流)が通う海。環日本海時代にいち早く、この海域に流入した文化は畿内の奥深にまで浸透していったに違いない。そののど仏に新井崎や浦島(本庄浜)や亀島(伊根)はあるのだから、新井崎が弥生の遠い昔に文化の前進基地であったとしても何の疑問のない。
徐福が漂着したハコ岩は集落の東岸に位置し、近くに新井崎神社(祭神:徐福)がある。
境内小社に秋葉神社があり、その右手に無名の宝篋印塔が1基ある。供養塔のようであるが、集落に存在する5基中の1基が境内へ移設されたもののようである。笠の四隅の突起がことごとく壊され、土地の人はどうも博打のまじないに剥ぎ取ったものではないかとも言う。
新井崎神社の例大祭は4月。棒振りや花の踊りが奉納される。
浦島太郎、安寿と厨子王、徐福等々丹後に残る民話は実に多い。
人は言う。海に暮らす人々には海の彼方からやってくるものは人であれ何であれ、例えそれが島であっても幸が宿るという、いわゆる「まれびと来訪」の信仰があるという。伊根町新井崎の人々もまた、徐福やハコ岩或いは沖の冠島にすらそうしたまれびとの来訪に幸を求めたものだろうか。
新井崎の断崖際に新井崎神社の鳥居が建っている。傍らに桜の古木がある。「七色の花伝説」を宿す桜だ。この桜は沖の冠島に鎮座する老人島神社の桜と同様に七色に輝く花を咲かせ、島と新井崎を繋ぐ海の道に橋が架かっていたという。ところがこの美しい桜の枝を子供達が手折ると腹痛がおこるので、親たちは花を咲かせないよう神頼みしたところ、翌年から桜は七色の花をつけなくなり、橋は消えったという。豊漁をもたらす冠島礼賛と美しいものへの禁忌を伝える民話であろう。
海上からそそり立つ岩は黒色。岩には「おはぐろ伝説」がある。
冠島の男神と新井崎の女神が橋を頼りに逢瀬を重ねていたある日、不意に来訪した男神に驚いた女神があわてて「おはぐろ」を落としたところ岬周りの岩はことごとく黒く染まったという。
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冠島とハコ岩 |
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トベラ |
このあたりの海岸端の岩はみな一様に黒い火山岩。轢が溶岩流に飲み込まれたような特有の組成をなし、さざれ石のような外見を呈している。
ハコ岩の傍らにある経文岩もまた同じ。洞窟をなし、崩れ落ちそうな天部の岩をコンクリートで補強してある。先の大戦では探照灯の格納庫として使われた名残だと土地の人はいう。
新井崎は若狭湾の西端にあり、日本海から軍都・舞鶴へ侵入する入り口。舞鶴への攻撃に備えて夜空を照らす探照灯が格納され、有事にはハコ岩に曳き出され使用された。消しがたい戦争の傷跡がここにもある。
新井崎神社は断崖に立つ社。断崖でトベラが白い花をつけ、夏の到来を告げている。
よく晴れた日、新井崎神社の境内から東方に目を向け若狭湾を望むと、遠く冠島が浮かびその左手に越前岬が見える。対馬海流に乗って毎冬、西から東へブリが回遊する。越前岬にぶつかった潮は反転する。迂回の潮に乗ったブリは若狭湾を東から西に向かい、田井の成生岬沖(舞鶴)から新井崎沖を通過する。好潮に恵まれるとブリやアジ、サバ、イワシの群れも同様に若狭湾を迂回する。
冬になると、奥丹後の伊根沖や新井崎沖の大敷網にブリが入る。年末年始の需要期とも重なり丹後の海はブリの大漁に湧くのである。
春5月、新井崎の高みから海を見下ろすと、定置網が3統みえる。海鳥が群がり、網の在り処がわかる。夏場の定置網はイワシのシーズン。宮津付近のイワシは‘金樽イワシ’の別称がある。刺身、テンプラどちらにしても良し。道の駅でテンプラを食す。美味だった。
かなたに見える冠島はオオミズナギドリが生息する島。大宝元(701)年に大地震が記録(続日本紀)されており、冠島は大浦半島(舞鶴)の北端の高山が陥没してできた島だという。島に老人島神社が鎮座する。高山であったころも半島の先端部は海の向こうから幸が流れ着くところに変わりはない。今は神の島として崇められ、普段は人の上陸すら許されない島(行政区画は舞鶴市)だという。漁民の島への信仰はあつい。−平成24年5月− |
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