藩政期において、石高は国策を執行するための財政指標であるとともに、大名、旗本等の格付けや転封等の基本的指標とされた。石高は天領、藩、旗本等知行地のそれの積み重ねであるから検地の実施と年貢の確実な収納が幕府最大の関心事であった。
しかし年貢は検地を基に幕府や領主が農民各戸に知らせたわけではなかった。領主や藩主などは村石高を示すだけで年貢徴収に一番重要かつ難儀が伴う各戸割当ては村落一統(共同体)に委ねたのである。その手法は今日においても
しばしば行政諸方面で活用される古来からの伝統的な手法といえそうだ。
江戸幕府は村社会の成り立ちを見据え、支え合い、助け合いの互助精神を督励し、最も効率的な年貢徴収システムを考案し、公務の軽減と効率的な年貢徴収を図ったのである。
稲作は起耕、井口の開口、田植、井口止、中干し、井口止、収穫等々、水の循環によって栽培される村落一統の栽培事業。つまり農民全戸が一つになって半年がかりでする農作業から成り立っている。その流れ作業のシステムは弥生時代以降、全く変わっていない。集落の寄合いによって、灌漑日程等が農民に伝達され、全戸一斉に同じ手順で農作業を進めないと苗1本植えることも、米を収穫することもできない。畢竟、稲作は必然として農民の支え合い、助け合いなくして完遂できない文化を集落に染み込ませた。その文化こそ、2000年来連綿として受け継がれた村社会の文化の源を成している。時の政権はそのような村社会を知悉し、利用し続け施政を行ってきたといえそうである。もっとも村社会の寄合い等組織構造の変遷はあるが、基本的に2000年来、大きくは変わっていない。
私たちは余剰米対策として近年まで実施された転作仕法について、国→都道府県→市町村→集落の順に転作田(面積)の割り当てが通知され、末端の集落集会で転作面積を各戸に割当て合意を得て転作は実行されたことを知っている。転作の未実施集落がむやみに生じることはまずなかったと思う。それもまた2000年来培われた稲作文化の証であるだろう。−令和5年1月− |