京都
十倉哀史2(農民一揆の実相)-綾部市十倉志茂町等-
十倉哀史続き
 十倉一揆は、年貢滞納により江戸屋敷に送られた農民144名が連判し、代表者14名が幕府評定所に訴え、年貢の減免を求めた一揆。代表者14名中死罪7名。うち十倉村の百姓5名中3名が、その他の各村の農民も支配層の農民であった(綾部市史)。豪農3名は覚悟して何も語らず従容として死出の旅路についたのではなかろうか。私は死罪になった農民に係る指出帳や人別帳などを見ていないが下男、下女、家頼(来)などを擁する石高20〜50石ほどの豪農であったかと推する。それら支配層の農民が果たして年貢をどれほど滞納していたのか疑問が残る。豪農は当然、米麦の収穫量(絶対量)も多く、不作年にも相当量の畜米があったと考えられる。腹を括って進んで「江戸さらし」(江戸屋敷に送られた年貢滞納者の通称)になり、罪をかぶって畜米を分け合い小農を助けたのではないかと思ってもみる。信頼され尊敬される豪農の心づかいは年貢を村落にかけ農家各戸に配分され徴収されていく過程において、困っている者がいると助け合い、支え合うという稲作文化をはぐくみ、日本人の美意識にまで昇華したのだ。
 死罪に処せられた越訴代表者たち7名は何も語らず死出の旅路についたに違いない。一揆に心律(自分の造語)ともいうべき文化を身につけた人たちがいたことにつき、残酷な歴史をいま裁くことはできず獄門に散った農民に低頭の真をささげるのみだ。
 もっとも今では農村集落の瓦解とともに農村に見る稲作文化は消えつつあるが脳裏の片隅に留めおくべき文化の一つであるだろう。
 十倉谷領一揆の前に、隣領上杉谷領(旗本2500石)で延宝9(1681)年、江戸奉公人163名(十倉一揆は144名が越訴)が訴訟を起こしている。十倉一揆より3年早くおこった同種の一揆であるが「江戸奉公人が余りにも多い」(綾部市史)と記されているのみで仔細不明。
 総じて、江戸さらしとなった上杉谷領の奉公人や十倉谷領奉公人が江戸屋敷で何をしていたのかさっぱりわからない。江戸屋敷がいくら広くても144名の奉公人が江戸屋敷内で寝泊まりし何ができたか疑問がある。六尺(駕篭かき)、槍持ち、草履取り、挟み箱(衣装箱)持ち、馬の口取りなど様々の仕事や雑用にあるにせよ、十数名の奉公人を充てれば足りる。2000石の旗本屋敷の用人は侍らを含め多めに見積もっても30数名で足りる。十倉谷領農民が越訴に至る前、奉公人は江戸詰め役人にみそ(配給)が足りない、筵をくれないと嘆いている。到底、奉公人が屋敷内で生活していたとは思われない。他藩藩邸の奉公人と比較しても十倉谷領の奉公人は多すぎるのである。体面を気にかける旗本は144名もの奉公人がすし詰め状態で暮らして居れば客人や出入の商人たちの目につき体面を汚してしまうので避けるはず。
 私は思う。江戸奉公人とは名ばかりで多くは人宿(ひとやど)で寄宿舎まがいの小屋で30名1組となって炊飯生活をしながら着の身着のままで重労働に駆り出され、日当は江戸屋敷の収入となったと考えてもみる。人宿は口入屋。奉公人は未だ無宿人ではない。江戸役人が身元保証をすれば就労は容易。引く手あまたで領主も人宿も双方、金がとれる。口入宿で寝泊まりしていたからこそ奉公人は30人に1升のみそが足りない、筵をくれないと江戸役人に訴えたのだろう。暗澹とした奉公人生活は奴隷に等しく、まさに江戸さらしであったと思うが資料に乏しく藪の中。
 十倉一揆で追放となった総数324名のうち204名は40余年後に領内各村に戻った。江戸時代において追放刑の受刑者は無宿者とされ赦免されることはなく、人別帳から消され戸籍を失い、容易に職にもつけない酷刑だった。追放人の世話をして勘定奉行の赦免許可を取りつけたのはくだんの十倉村の死罪になった支配層の農民2名の息子たちだった。放浪生活を送りながら40年余、身を寄せ合いかつ村社会での親たちの立ち位置を忘れることなく
獄門のもうひとつの背景
 死罪になった江戸奉公人は、十倉谷領内において多くの作人を抱え谷家を脅かす往時の名主や土豪に匹敵するような力のある豪農であったからこそ幕府も谷家も一揆を好機にその廃退を企図したことは想像に難くない。
 十倉一揆直前の検地に係る「指出帳」を見たことはないが幕府も谷家も徴税等権力維持に差し障る農民の行動に目を光らせ、一揆を「きか」として厳罰を持ってのぞみ、その廃退を図ったのではないかと思う。
農民を導いたからこそ、追放農民はを帰郷できた。
 しかし、追放人の帰郷を世話した彼らは帰郷を許されることはなく、帰郷する農民を見送る彼らの姿は喜界島に流された俊寛にも似て、全身をふるわせたに違いない。
 それにしても40年余、一揆追放者はどこで何をしていたのだろうか。無宿者となった彼ら農民の身元保証をする者もなく、妻子を抱え路頭に迷い先の見えない生活が続けば野たれ死にするほかない。しかし204名はまとまって国元に帰っている。その生活は一体、どのようなものであったか。
 私は思う。古来、丹波地方の通婚圏はかなり広い。母や妻などの出身地をたどれば綾部・福知山等丹波一円や丹後、桑田、但馬、若狭などに親族がいる可能性が高い。追放になった者が互いに連絡を取りつつ親族の実家に身を寄せ、家業を手伝うなどして生きる糧を得ていたのではないかと思ってもみる。総じて、追放刑に処せられた者が赦免されることはほとんどない。将軍吉宗の登場をまって刑罰史が転換され、十倉谷領農民は救われたといわねばなるまい。
 また十倉一揆など17世紀に多発した農民一揆は中世の土豪的農民の拡大・存続に壊滅的影響を与え、田畑の耕作(面積)の細分化をもたらし、新田の開墾等によって石高は飛躍的に伸びたものの米麦の土地生産性の低下を招いた。農家の1戸当たりの経営面積の零細さと生産性の低さはその後の日本農業最大のアキレスケンであり続けている。労働者の供給基地たる農村の崩壊と産業分野におけるAI化による日本人口が半分以下になる日が来ることもそう遠い未来 ではなさそうだ。そこでまた新しい農村文化が生まれ美しい環境が残されていることを願いたい。
稲作と日本社会
 藩政期において、石高は国策を執行するための財政指標であるとともに、大名、旗本等の格付けや転封等の基本的指標とされた。石高は天領、藩、旗本等知行地のそれの積み重ねであるから検地の実施と年貢の確実な収納が幕府最大の関心事であった。
 しかし年貢は検地を基に幕府や領主が農民各戸に知らせたわけではなかった。領主や藩主などは村石高を示すだけで年貢徴収に一番重要かつ難儀が伴う各戸割当ては村落一統(共同体)に委ねたのである。その手法は今日においても しばしば行政諸方面で活用される古来からの伝統的な手法といえそうだ。
 江戸幕府は村社会の成り立ちを見据え、支え合い、助け合いの互助精神を督励し、最も効率的な年貢徴収システムを考案し、公務の軽減と効率的な年貢徴収を図ったのである。
 稲作は起耕、井口の開口、田植、井口止、中干し、井口止、収穫等々、水の循環によって栽培される村落一統の栽培事業。つまり農民全戸が一つになって半年がかりでする農作業から成り立っている。その流れ作業のシステムは弥生時代以降、全く変わっていない。集落の寄合いによって、灌漑日程等が農民に伝達され、全戸一斉に同じ手順で農作業を進めないと苗1本植えることも、米を収穫することもできない。畢竟、稲作は必然として農民の支え合い、助け合いなくして完遂できない文化を集落に染み込ませた。その文化こそ、2000年来連綿として受け継がれた村社会の文化の源を成している。時の政権はそのような村社会を知悉し、利用し続け施政を行ってきたといえそうである。もっとも村社会の寄合い等組織構造の変遷はあるが、基本的に2000年来、大きくは変わっていない。
 私たちは余剰米対策として近年まで実施された転作仕法について、国→都道府県→市町村→集落の順に転作田(面積)の割り当てが通知され、末端の集落集会で転作面積を各戸に割当て合意を得て転作は実行されたことを知っている。転作の未実施集落がむやみに生じることはまずなかったと思う。それもまた2000年来培われた稲作文化の証であるだろう。−令和5年1月−
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