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福岡 |
名島城址−福岡市東区− |
博多湾に注ぐ多々良川の河口の北に名島というところがある。三方を海に囲まれた小高い丘の上に名島城跡の碑が建っている(写真左)。城は、天正15年(1587年)、筑前国主となった小早川隆景が豊臣秀吉の命により城を築き九州監察の根拠地としたところである。秀吉は、城に御座所を設けさせ、朝鮮半島への進出のために築いた肥前名護屋城に西下(文禄の役)の途中、淀姫とともに名島城で宿泊している。満足そうな笑みを浮かべ志賀島、能古島を望む秀吉の顔が浮かぶようである。
慶長5年(1600年)、関が原の合戦後、黒田長政が筑前藩主として入国し、福崎に福岡城を築城した。これに伴い名島城は廃城。城跡の中腹に名島神社(写真左)が鎮まっている。神社は元々、山の頂上・神宮が峯にあった。
香椎浜や箱崎埠頭などの埋め立てによって城跡からの視界は利きづらくなったが、名島は上代から博多の要害であった。元寇の蒙古軍も足利尊氏も名島の多々良川河口を上陸地乃至は戦場とした。
名島神社の祭神は宗像三女神である。この辺りに宗像部の支店のような出先があって、官の海事関係業務を請負っていたのではないだろうか。そのように考えるならば、山上億良が万葉歌(荒雄の海難)で示唆する大宰府が対馬へ輸送する物資の輸送を宗像部に命じた意味が理解できる。上代においては、博多湾は宗像、志賀島、住吉の海人族が海技を競う海だったのだろう。−平成18年2月− |
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