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福岡 |
大宰府(都府楼)−太宰府市− |
丈夫と思へるわれや水茎の みつきの上に涙ぬくはぬ
<大伴旅人> |
大宰府の都府楼(政庁)辺りを歩くと、何かしら感傷的な気分になるものである。芝生のうえに石碑が三つ。茫漠とした遺跡がそのような気分をいっそう助長させる。さらに、大伴旅人や山上憶良或いは菅原道真な
どの悲劇が私たちの判官びいきをくすぐる故であろう。春の頃、都府楼の礎石に陽炎がうつろい、水城は青々とした緑に覆われ、観世音寺や戒壇院の門前はキンポウゲの花が野を染めている。
大宰府は、那津官家(なのつのみやけ。西暦536年設置)を前身とする九州の軍事や政治経済を司る官衙であった。政庁は堂々とした南門(写真左下。九州国立博物館模型)を備え、朝堂院形式(写真左上、政庁説明板)で造られ、遠の朝廷(とうのみかど)と称された。
朝廷は、西暦663年、白村江において唐・新羅の連合軍に大敗を喫すると、当時博多湾の水際にあった那津官家を、ただちに内陸部の大宰府にまで後退させ、さらに唐・新羅の連合軍の追撃に備え、対馬、壱岐、能古島など博多湾沿岸の警備に防人を配置し、新営の大宰府周りに水城(みずき)の大堤や背後の山々に大野城や基肄(きい)城が築かれた。さらに対馬、山口、屋島、大和などにも山城を築いたと日本書紀はしるしている。
水城は、基底部は幅80b、高さは13bほどもある。大野城など山城址には、山腹を石塁や土塁がめぐり水門などが残り山城の姿をとどめている。 |
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