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福岡 |
国分寺跡−太宰府市国分− |
筑紫の国分寺は、大宰府政庁(都府楼)から北西の方向に小道を歩くと道端にある。住宅地の小高い丘の上に寺跡はある。
叢から礎石が露出し、ここが国分寺跡かと思うほど遺跡は目立たない。
西暦741年(天平13年)、聖武天皇の勅願により諸国に国分寺と国分尼寺が建立され、国分寺の寺域は一辺が約200メートルもあった。 整然と建ち並ぶ講堂、七重塔、金堂など堂塔伽藍が整然と建ち並ぶ様は、律令国家の威容示すものだったろう。
国分寺建立の詔があった前年、僧玄ムらの策略によって大宰府に左遷された藤原弘嗣が筑紫で反乱を起こし、大野東人に斬られるという事件があった。
聖武天皇の混乱は極点に達したようである。天皇は弘嗣の斬首の後も伊勢、近江、山背の恭仁郷と各地を転々と行幸し、平城京に帰ろうとはしなかった。742年、国分寺建立の詔を発布した後も恭仁京から紫香楽宮にしばしば行幸を繰り返す有様だった。
聖武天皇の母宮子、皇后光明子はともに弘嗣の叔母に当たり、僧玄ムら側近との狭間で聖武天皇の苦悩も極点に達していたことは想像に難くない。このころ、天然痘とみられる疫病からか鎌足の子である房前、宇合、麻呂が次々と死去している。
太宰府市文化ふれあい館の屋外に七重塔が復元・展示(縮尺10分の1、木造、写真左)されている。よく出来ており、一見の価値がある。
香川の国分寺には石造の復元模型がある。伽藍の全体像がわかるよい施設である。機会があれがご覧になるとよい。 |
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