板碑の風景−美馬郡穴吹町尾山−
  穴吹町の吉野川左岸の丘陵上に、「尾山」という地区がある。曲がりくねった急な坂道を往き高度を増すほどに、眼下に吉野川がひらけてくる。 丘陵一帯は早くから開け、人々が生活し、尾根筋に横穴式石室を備えた尾山古墳(円墳)などがある。
  尾山地区の最高所から少し下ったところに薬師堂が建っており、堂の裏手に周りをコンクリートで固めた「板碑(いたび)」(写真左)が保存されている。材質は青石(緑色片岩)、厚さは10aに満たない薄い板石である。板碑の上部に種子(しゅじ)が刻され、右端から中央に向かって夜念(仏)、僧教円、中央に延文二年(西暦1357年)などの線刻文字が確認できる。種子はうっすらとキリーク(梵字で阿弥陀如来をあらわす)であることが確認できる。地区の人々が念仏講を組織して、夜間、新仏を供養する盆の行事或いは夜っぴて念仏を唱えた記念碑であろう。板碑はそのような講の結成ないしは結成後の節目の年に建てられた。一般的に板碑は、逆修や追善供養などにより建てられる場合が多く、このような趣旨のものは珍しいといえる。夜念仏の板碑の中では日本最古の石造美術とされている。

 徳島県下には約千の板碑が存在するが、敷地神社の御神体となっている加茂野の板碑(石井町高川原)や同市楽の石川神社境内の板碑群(写真左)がよく知られている。刻される文字は多様であるが大方、「南無阿弥陀仏」の六字名号など阿弥陀信仰に結びつくものが多いといえる。 国分寺の興禅寺の板碑(写真左下)のように六地蔵が線刻された特異なものもある。市楽の板碑群には国東様式、武蔵様式など各種形式の板碑が並存している。誠に不思議である。その淵源に念仏上人、捨聖などと称された一遍上人や空也(浄土寺 六波羅蜜寺)
の姿が見えかくれする。板碑の普及に果たした遊行の聖者の影響を思わずにはいられない。江戸期にまで続いた板碑の造立は、念仏講や逆修を勧進行脚し諸国を遊行する半僧半俗の聖や修験者などによって指導されのであろう。
  円空や木喰が諸国を行脚し木像を刻んだように、中世の四国、九州、関東などそれぞれの出身地域を拠点にして全国を行脚し、自ら石工の技能をもつか、技能をもつ者を伴って板碑を刻む僧形の者や修験者が存在していたのではないだろうか。そのように考えるならば、関東地方で発見される阿波様式の板碑或いは阿波に存在する国東様式などの板碑の不思議が解けるように思う。 板碑は、生前に極楽後生の願いなどから立てられ、室町、南北朝時代に隆盛をみた中世の仏教信仰の遺物である。13世紀から17世紀にかけ約4百年間にわたって造り続けられたのである。-平成16年11月-
板碑のこと
 板碑の原初を鎌倉期の関東に見出すことができるという説がある。修験道の入峰の証として建てられた碑傳ひでを祖型と考える者もいる。板碑の一般的な型式として、長方形に整形した扁平な石の上部を尖頭にしつらえ、尖頭の底部に二条の沈線を刻み、身部に仏、菩薩の種子或いは画像や銘文を刻んだものと説明されている。両説は、その種の板碑の古いものが関東にあるという主張や、板碑に先行して板碑の形状によく似た碑傳が存在するという理由などを支えとしている。板碑は、関東、東北、北陸、畿内、中国、四国、九州と全国に分布する。その土地の名称をとって武蔵様式、阿波様式、国東様式等の呼び名もある。部材も花崗岩、緑色片岩(青石)、安山岩など多様であるし、種子や画像の表現も阿弥陀仏、阿弥陀来迎図、南無阿弥陀仏の名号であるなど実に多様である。かつ、造立の趣旨は、逆修や追善供養にあると考えられるから宝篋印塔など他の石造物との共通点もある。したがって、板碑という形状にのみ着目し或いは部材を青石に限定して板碑と呼ぶことについて違和感を禁じえない。それは部分を指しているのであり、板碑本来のすがたを現してはいない。
 思えば、インドからパミール、天山を越え中国から日本へ流入した仏教文化の潮流は、仏像や五重塔などの伽藍のみならず、五輪塔や宝篋印塔などの石造物に至るまで直接、間接に国土を覆ってゆく。仏教文化の発展過程から派生した固有の文化もまた多いことであろう。板碑もまたそうした派生文化の一領域にあるものではないだろうか。すなわち、貴族趣味的な仏教文化は、知識の蓄積や財力などの点から武士や農民には直接、手が届かないところにあった。しかし、ようやくそれらの人々が力を蓄え、浄土教など新興の仏教がおこると人々は追善供養や逆修の趣旨のみならず、時を経て念仏供養や庚申待供養など結衆による板碑、庚申塔などを造立するようになるのである。
 板碑の発生源、ないし祖型について、それが仏教信仰を元にするから、京都や奈良を思わねばならない。しかし畿内には造立年代等からみて祖型を思わせるものはない。板碑の発生期である12、3世紀において、最も古い板碑は九州の鎮国寺や遠賀川流域、英彦山の周辺にある。さらに、私は、それらの祖型は直方の延久二年(1070年)在銘の石柱梵字曼陀羅碑ではないかと密かに思いを回らせるのである。いずれも北九州の遠賀川流域ないしはその近辺に古いものがある。遣唐使の廃止によって、大陸文化の潮流が途絶えたかに見えるが、実際はそうではなく、博多商人らによって間断なく大陸文化は移入されつづけ、遣唐使廃止後も宝篋印塔の祖型とみられる今津・誓願寺の銭弘俶八万四千塔などが流入しているのである。文化の上陸地点において、先進の文化にふれつつ編み出されたものが板碑の祖型を成していったのではないだろうか。
 板碑の様式に武蔵、阿波、国東の各様式が存在する。しかし、各地に現存する板碑はみな少しづつ異なる場合が多く、板碑の様式は多種多様である。京都、大阪、奈良など近畿地方でみかける板碑は小型のものが多いように思う。名号や半肉彫りの菩薩像を刻み、額部の二条線は陽刻したものが一般的な板碑といえそうである。
 奈良に城内の柳沢文庫でよく知られた大和郡山城が所在する。城の天守台は野面積みの石垣であるが、裏込め石として五輪塔や羅城門の礎石、野仏が積込められている。地元ではさかさ地蔵と呼ばれる石仏がよく知られている。それらの裏込めされた石造物は築城の際、石材不足が生じて天正年間(天正16(1588)年に急きょ領国内から接収されたものである。その中に板碑(写真左下)が認められる。石造物の接収の時期から板碑を含むそれらの制作年代は、天正年間以前に造られたものといえる。法隆寺の周辺(写真右下)や大阪府の枚方などでもこの種の板碑に接することができる。塔身の一部を欠いていたり消耗が著しく、造立年や願文が確認ができない。この種の4、50センチにも満たない小型の板碑は福岡の観世音寺米一丸地蔵堂境内などにも類似のものが存するが、大阪、京都、奈良辺りに多く畿内様式ともいうべきものであろう。
郡山城の石垣板碑 法隆寺周辺の板碑

板碑の二条線の考察
 板碑の山形の下に刻まれる二条線が板碑の最大の特徴の一つに数えられる。武蔵、阿波の二条線は陰刻が一般的である。ところが畿内型の板碑は、二条線が陽刻であらわされ、かつ上段の条線が下段より低く刻まれていたり、二条線の中央部が僅かに突き出たものも存在する。部材は分厚い花崗岩製で風化が進み造立年や願文の銘を失っているものが多い。これが畿内様式ともいうべき板碑の概観である。
 二条線はいったい何を意味するのであろうか。私は、二条線は塔婆を簡略化した表現ではないかと思う。三重塔や五重塔のような塔婆の簡略形と考えるのである。塔婆はもともと仏舎利を塔の心礎などに埋納し仰讃する重要な施設であるから、板碑に陽刻或いは種子であらわされた如来は塔婆の内に奉安されるべきものである。二条線が塔を簡略したものと考えると、板碑上の如来は、概念として露仏にはならず塔に奉安された仏となるのである。
 京都府に木津川市加茂町という町がある。その町に当尾という石仏で有名な地区がある。その地区に康永2(1343)年在銘の阿弥陀如来坐像(石仏)があり、坐像に向かって右側に火袋のついた石燈籠が線彫りされている。石燈籠をよく見ると、燈籠の屋根下に二条線が描かれている。私はこの二条線が塔婆の簡略形として板碑に刻まれたとみるのである。〈板碑のこと(奈良)の再掲〉

 参考:
多武峰の板碑(奈良) 板碑のこと(奈良) 元興寺の甍(奈良)
板碑の風景(四国・徳島) 浄土寺(広島・尾道) 建武の板碑(福岡・直方)
老樟と板碑(福岡・稲築) 福岡の板碑 石柱本字曼荼羅碑
(福岡・植木)
国東塔と板碑(大分)  天王の板碑(京都)