近畿風雲抄
奈良
板碑のこと−奈良県下−
九品寺板碑
九品寺板碑
阿弥陀如来坐像石燈籠
阿弥陀如来坐像石燈籠
(当尾)
石仏、磨崖碑、石燈籠、石塔婆など奈良には随分多種、多様な石造物が存在し、その量も圧倒的である。  京都然りである。
 私たちが古寺の境内や或いは野を行く場合にも奈良、京都にはよく知られた石仏が多いから、どうしてもそちらのほうに目移りし、板碑や庚申塔などにまで目を向けることはないだろう。
 板碑や庚申塔は中世乃至近世において、熱病のように全国にひろまった庶民信仰における供養塔である。
 逆修や追善供養の趣旨により造立される板碑は、鎌倉時代に原型ができ室町時代に最も盛んに造られ、江戸時代に終末期を迎える。板碑は相前後しておこった庚申塔より先に消亡したのである。
 奈良、京都など近畿圏における板碑は、関東、四国と比較してその分布濃度は薄いように思われるが、畿内型とも言うべき特徴を見出すことができる。板碑は上部を山形につくりその下に二条線が刻まれる。碑の中央部などに種子(しゅじ)や名号或いは阿弥陀如来などの仏身を刻み、碑の下部に造立趣旨や年号などの銘を刻み、台座にのせる。このような基本的な要素を備えつつ、板碑に国東様式、阿波様式、武蔵様式などの地域差が生じ、様式が異なると部材や板碑の質感、種子などの彫り方や見た目の印象も異なるのである。
 奈良県下では元興寺や多武峰(とおのみね)の妙楽寺廃寺周辺や広く県下の古刹、墓地或いは道の辻などで板碑を見かけることが多い。それは、東国や四国にみられる緑色片岩(青石)を部材としたものではなく、ほとんどの板碑は花崗岩が用いられ、厚みがある。
 板碑の定義について、一般的に、狭義には緑色片岩を用いた薄手の石塔婆をさし、広義には畿内型の分厚い花崗岩製の石塔婆を含め板碑と称する。東国のそれとは様相の異なる畿内型の石塔婆を板碑で一括する不自然さは、定義の問題であるにせよしっくりこない。多分、緑色片岩製の薄手の石塔婆を最初に板碑とよんだ経緯があるのだろう。その種の武蔵様式の石塔婆はなかなか美しいものが多く、いわば仏教芸術的方面の学術用語とされ、研究も先行していたことをうかがわせる。国内には部材や細部の形状が異なるものの同種の石塔婆が存在し、それらをも含め板碑と称することは少し便宜的にも感じられ、呼称の不自然さがあることは否定できない。
 さて、山形の下に刻まれる二条線は板碑の特徴の一つに数えられる。武蔵、阿波の二条線は陰刻が一般的である。ところが畿内型の板碑は、二条線が陽刻であらわされ、かつ上段の条線が下段より低く刻まれていたり、二条線の中央部が僅かに突き出たものも存在する。部材は分厚い花崗岩製で風化が進み造立年や願文の銘を失っているものが多い。これが畿内様式ともいうべき板碑の特徴である。
 板碑の二条線はいったい何を意味しているのであろうか。二条線は三重塔や五重塔などの塔婆を簡略化した表現ではないかと私は思う。それらの塔婆はもともと仏舎利を塔の心礎などに埋納し仰讃する重要な施設であるから、板碑に陽刻或いは種子であらわされた如来は塔婆の内に奉安されるべきものである。そうすると、塔婆を簡略化した二条線が刻まれた板碑上の如来は、概念として、露仏にはならず塔に奉安された仏となるだろう。
 京都府に木津川市加茂町という町がある。その町に当尾という石仏で有名な地区がある。その地区に康永2(1343)年在銘の阿弥陀如来坐像(石仏)があり、坐像に向かって右側に火袋のついた石燈籠(写真左上)が線彫りされている。石燈籠をよく見ると、燈籠の屋根下に二条線が描かれている。私はこの塔を示す二条線が堂塔の簡略形として板碑に刻まれたとみるのである。
 二条線が刻まれた板碑の古いものに、岡山県下の安養寺から発掘された応徳3(1086)年に造立されたと考えられる石塔婆や発見当初、二条線が彫られた断石を伴っていたと推定される嘉禄3(1227)年在銘の板碑が埼玉県下に存在する。加茂の線刻石燈籠は、それらの板碑より造立年が少し下るが二条線の根元をよく説明しているように思う。そうした原型が畿内に存在したか当尾に伝播したのだろう。(写真上は九品寺(御所市)の板碑)。−平成19年6月−

西大寺地蔵堂板碑 矢田寺板碑
(文禄2年銘、
名号塔)
元興寺板碑群

 参考:
多武峰の板碑(奈良) 板碑のこと(奈良)
天王の板碑 元興寺の甍(奈良)
板碑の風景(四国・徳島) 浄土寺(広島・尾道)
建武の板碑
(福岡・直方)
老樟と板碑
(福岡・稲築)
福岡の板碑 石柱本字曼荼羅碑
(福岡・植木)
国東塔と板碑(大分)  板碑のこと
   
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