銅鐸
  善通寺の大麻山、我拝師山など銅鐸の出土地から眼下の広田川流域の美田を眺めていると、銅鐸のことなどに思いがめぐる。
  扁平な釣鐘形をして側面にトンボ、蛙などの動物や高床式建物などが描かれた青銅製の銅鐸。内部の空洞に舌が下がり、打ち鳴らすと鈍く重い音が出る銅鐸。通例、地下浅くに埋納された状態で出土するが、その発生起源や用法、更には忽然と弥生社会から姿を消してしまう謎の多い銅鐸。
  四国には讃岐の我拝師山や大麻山など銅鐸の出土地が散在し、内海の諸島にまで及ぶ。残念ながらその大半は、県外に流出乃至個人所有となっていて、遺物の現認は困難である。
■ 銅鐸には発掘経緯など不詳のものが多く、かつその特定に資する遺物への付着土など周辺資料の保存が十分とはいえず、科学的分析が困難な場合が多く制作年代はむろん使用の目的や埋納経緯等についても類推の域を出ておらず、一層謎に包まれたものとなっている。制作年代等の特定は、今後偶然に発見される銅鐸から科学的分析手法によって確かな知見を得るべく総合的な研究体制の整備を待たねばならないであろう。
  銅鐸等の遺物、遺構は、開発行為等によって偶然に発見されるものが大部分であるが、各地域における遺物、遺構の埋蔵量は一定でない上、開発行為が頻繁に行われる地域での発見割合が他地域に比べ相対的に高くなる。したがって、遺物、遺構の分布の傾向等から歴史を一般化してしまうと真実が隠れてしまう可能性が否定できない。このことは、銅鐸等の青銅製品の鋳型発見の推移や近年では、瀬戸大橋の建設工事にともないサヌカイト製石器が内海の島々から大量に発見され、日本の先史文化のあり様が改めて注目される状況等からも明らかであろう。歴史事実の推理、推断はその時代、時代の科学の進度を前提として行われる限り大変結構であるが、遺物への付着有機物等の保存に最大限の努力が払われるなど、後年の科学技術の進展を待つ姿勢も大切ではなかろうか。青銅器や鉄器、土器などの推定年代を記述する場合には、その周辺の科学的データを併記しておくなど慎重な対応が必要であろう。
 長い間謎とされたナスカの地上絵の年代についても有機物の炭素分析から築造年代が明らかになった。遺物や周辺の炭化物の測定年代をまず明らかにして、当該遺跡、遺物の編年につき説明が行なわれるなど科学らしさが担保されなければ、わが国の遺跡、遺物につき私たち市民はむろん諸外国の人々からもその精度につき信頼を得ることはますます難しくなるであろう。
■ 銅鐸の起源、用法、消滅の経緯について、銅鐸が稲作と雨乞いに係る古代祭祀に深い関わりがあるように私には思える。稲作にまつわる習俗や高倉など建築物の有り様は、沖縄、奄美諸島など南方のそれと極めて近い。日本民族の移動のルートと重なりつつ稲籾と栽培法が南方から伝来したと考えるが、水を制する技術が幼稚な時代、つまり灌漑技術が未熟な時代には、自然の湿地帯で細々と栽培され、主食の太宗はブナ科の照葉樹の木の実や獣、魚貝であったであろう。縄文時代から弥生時代に至る長い年月の経過ともに徐々に灌漑技術が進化する過程において、私たちの祖先は青銅器や鉄器を得て大河川の平野部に進出し、組織的な稲作を行うようになり、その生産力は飛躍的に向上して弥生式土器発掘地顕彰碑いったであろう。それは、稲籾や鉄器、薄手の土器を携えた渡来人が突然、日本民族の骨格をも変えてしまうほど大勢渡来して弥生時代の幕が開いたというような単純なものではないのかもしれない。民族移動を推定できるほど人骨のサンプルが多いとは思われない。農耕の伝統はそれほど保守的である。弥生という時代区分は、政権交代等統治権の移動をもってする平安、室町、鎌倉等の時代区分とは基本的に異なる概念であり、まったくあいまいである。(写真は、弥生式土器発掘地に建つ顕彰碑。本郷通りに面した東京都台東区弥生2丁目の一角にある。)
■ 私は日本における稲作は、細々と縄文時代から行なわれていたが、大陸から青銅や鉄地金の移入、次に精錬技術を獲得し一層広く行なわれるようになったと考えるが、稲作が行われた時代において灌漑期の降水量の支配が唯一困難なことは、程度の差こそあれ今日においても同様である。
  特に、降雨量の少ない瀬戸内海沿岸の四国、中国地方においては、水の確保が稲作の最大の課題だった。ひどい水飢饉が襲来すると、ダムなどの水利施設を持たなかった時代には、ひたすら天に祈りを捧げるほかなかったのである。讃岐の人々は、近世に至るまで女体山や城山など水源地帯の山上や土器川のほとりなどで雨乞いを行った。
■ 弥生時代においても、水飢饉が襲来すると、ムラ、ムラの山や谷、或いはイワクラのある山頂などの水源地帯で雨乞いが行われたであろう。飢饉が襲来すると地中に埋めた銅鐸を掘り出し、銅鐸を打ち鳴らし雨乞いの祭祀を行ったのではないだろうか。祭祀に銅鐸に併せ銅剣、銅矛などの神具を使用する地域も当然存在したであろう。
  高松市郊外に、古代における雨乞いの風を伝える「清水神社」(写真左)という社がある。同所の雨乞いは、水飢饉が襲来すると複数の甕を本殿などの地中から掘り出し、近くの清水から汲み上げた水で洗い清めて祭祀を行い、祭祀が終わるとまた甕を埋め戻すというものであった。甕を掘り起こした者は死亡するという禁忌がともなっており、同所の雨乞いは命がけだった。善通寺の「梛の宮」の秋祭りにおいても、神具が出水水源地(湧水)で洗われる。福岡県太宰府市では、大渇水になると太宰府天満宮の衆徒による雨乞いが今日でも行なわれている。その方法というのは、やはり水瓶を掘り出し祈祷を行い、雨乞いが終わるとまた瓶を埋め戻すというものである。最澄が行なった修法と伝えられているが、常時は神具を埋めておき、雨乞いが行なわれる際に掘り出し、雨乞いが終わるとまた埋め戻すという手順は、古い時代の方法が踏襲されのではないだろうか。太宰府の雨乞いは、近年では、昭和53年に行なわれている。
  清水神社等の甕と同様に銅鐸を祭器乃至神具と考えれば、雨乞いの祭祀に先立ち銅鐸を地中から掘り出し、水源水で清め祭祀が済むとまた元どおりに埋め戻されたと考えても不自然ではない。水飢饉の度に祭祀が繰り返し行われるため、掘り出す手間などを考慮して銅鐸は地中深くに埋められることはなかったであろう。古形式の銅鐸が出土する地域における灌漑期の降水量の推移や水利の状況などにもっと注意が払われるべきであろう。
■ 銅鐸が突如、弥生のムラムラから姿を消す現象は、気候の変化と関係があるのではないだろうか。つまり、灌漑期の降雨量が潤沢な時代が長く続き、しだいに銅鐸を打ち鳴らし祭祀する雨乞いの風が人々の記憶から消え、かつ、農耕儀礼等の伝統がヤシロ等の施設祭礼に集約される過程で自然消滅したのではないだろうか。加えて銅鐸は祭器であるから清水神社の甕のごとく禁忌がともなっていたと考えられるため、掘り出して鋳潰されることはほとんどなかったであろう。讃岐においては、20個ほどの銅鐸が確認されているが、古墳から出土する例もみられる。これは水飢饉の頻度が他所より高く、比較的長く祭祀が行われていた可能性を示唆するものではないだろうか。いずれにせよおしなべて灌漑期に潤沢な降水量に恵まれた弥生時代のよい気候が平野の生産力を増し、強大な権力基盤がもつクニが群居するに至ったことは想像に難くない。このような発想が無視されるにせよ銅鐸発掘地における気候の遷移や土壌サンプル等の分析を通じ銅鐸埋納の年代確定に資する科学的分析体制の確立を急ぐべきであろう。
■ 銅鐸の底部の断面は扁平な楕円形である。これは弥生人の銅鐸の音響効果に対する嗜好から生じたように思う。底部の形状を円形に造ると胴部が長くなるにつれ共鳴をおこしやすく、音に勢いを失う。程度の差はあるが楕円形にすると、音に単調な迫力が生まれる。雨乞いは降雨を神に訴える祭祀であるから、底部を扁平にした楕円形の形状をした銅鐸の音が好まれたのではないかと思う。-平15.10-
山に登った石舟  石清尾山古墳群