石清尾山古墳群-高松市-
猫塚  高松市街の西方で石清尾山、峰山、紫雲山の三山が連なり瀬戸内海に臨んでいる。山の頂上が平坦になっていて、海上から眺める峰山(写真左下)の山容は特に美しいものである。
  これら三山に100基余の古墳が点在し、一括して石清尾山古墳群と通称されている。たいへん大まかな命名であるが、古墳の多くは積石塚である。積石塚の諸相も、前方後円墳、双方中円墳、方墳など豊である。
  三山中、峰山はもっとも多くの積石塚が所在するところ。平坦な峰山山頂の中央部は擂鉢状になっていて、その外周部に積石塚が数珠状に連なっている。そのうち姫塚、石船塚、北大塚古墳は前方後円墳。猫塚、鏡塚は双方中円墳、北大塚東古墳は方墳等々と、形状は多様である。
峰山を望む 石清尾山古墳群は、善通寺の野田院古墳の形式(前方後円墳)が畿内へ伝播するルート上にあるという意味でも大変貴重ではないだろうか。山上の外周部に安山岩が随所に露出しており、古墳築造の骨材の調達は容易。讃岐平野や瀬戸内海が一望できる稜線上は標高も申し分なく墳墓築造の適地。野田院古墳の原則に沿って築造すれば、古墳は地上から目立って大きく見える条件を備えている。

姫塚  峰山の姫塚(写真左)は全長43メートルの前方後円墳。積石塚で後円部の高さは3.6メートル。基軸は東西方向に置かれ、後円部が稜線から外れ東側に張りだすように築造され、後円部に階段状の石積みの痕跡がある。後円部の側面が高く、地上からたいへん目立つ造りである。南東〜南方向に仏生山、香南の平野が広がっている。
 姫塚は、鏡に手擦れや補修の痕がある鏡が出土し、伝世鏡(権威のシンボルとして首長に代々受け継がれた鏡)の着想が生まれた古墳としてよく知られている。
猫塚 猫塚(写真右)は、基軸を南北方向に置く積石塚。古墳の西に本津川、香東川の流域平野が広がり、平野の北に瀬戸内海が展開している。明治の末に激しい盗掘を受け、墳丘部はクレーター状に陥没し、取り除いた石が山の斜面に積み上げられ、痛ましい姿をさらしている。全長96メートルの双方中円墳とされ、中円部が異常に大きくかつ高さは5メートルほどもあったと推定されている。盗掘された出土遺物は四散する寸前に官憲に差し押さえられ、漢の内行花文鏡、獣帯鏡など5面猫塚2の銅鏡に加え石釧、銅剣17、銅鏃8、鉄斧、弥生式壷などがあったと伝えられる。
 石室(写真左。現在は埋められている。)は、中央に1基の大きな竪穴式石室がありそれを取り囲むように8基の石室が存在したと伝えられる。弥生時代の家族墓を髣髴とさせるものがある。遺物は香川県下にはなく確認のしようもないが、これほど謎に充ちた古墳である。
 石舟塚(写真右)は、全長57メートル、後円部の径は28メートルの前方後円墳。割石塚である。墳丘に石舟塚2基、鷲の山産の刳抜式割竹形石棺(写真右)が露出し、造りだしの石枕がみえる。
 鏡塚(写真左下)は、全長約70メートル。ほぼ南北方向に基軸を置き、中円部を真中にして左右に方墳部が付く双方中円墳である。中円部の径は約30メートル。猫塚と同じ様式である。なぜ中円部の左右に方墳部が付くのであろうか。鏡塚は小さな尾根状の頂上部に中円部が置かれている。古墳の位置及び付近の安山岩の分布からみて、方墳部は鏡塚いずれも積石の搬入路と考えられないものであろうか。土木事業においては、骨材等資材の調達場所、作業員数などのほか工法が重要である。工期等にあわせ工法が特定される場合も当然ある。鏡塚は、そのような土木事業の常識から考えて、円墳の前後に搬入路(方墳部)を設け工期の短縮を図るべき事情があったと考えるほうが合理的である。鏡塚の北に築かれた北大塚古墳(積石の前方後円墳、写真右下)外2基中1基は方墳である。北大塚古墳築造後の土地利用を考慮すると、方墳が最適と判断された結果であろう。
  北大塚積石塚の淵源を部族の特異な宗教観や中央アジアなどに求めるには、だいぶ説得力を欠くように思えてならない。四国北岸の地質、地形の特殊性が前方後円墳や双方中円墳などの墳墓を生みだす遠因となったと考えるほうがよほど自然ではないだろうか。また、四国北岸は瀬戸内海という古代のハイウエーの道筋にある。北九州から流入する青銅や鉄地金の交易にも地の利があり、農業生産産力を補強して権力基盤を形成しやすい優位性もあったであろう。瀬戸内海、平野を見下ろす石清尾山に墳墓を築造した所以は、たぶんそのような性格が内在する強大なクニが存在していたのであろう。

  石清尾山古墳群は、一括して古墳時代初期のものと説明されている。石清尾山古墳群のほとんどは盗掘を受け、ほとんど調査が行われてこなかった。 幾世代にもわたり連綿として造り続けられた石清尾山古墳の諸相をみるとき、築造年代等につき古墳1基、1基について岩石学、土木工学、建築学、植物学などの諸分野の知見を総合した科学的考究が必要であろう。そのような実績の積み重ねが古墳の編年のみならず延いては日本史の解明に画期的な成果が得られるのではないだろうか。遺物に付着した土中の炭化物や有機物、積石の打撃痕なども年代測定の重要な資料である。香川県下には石清尾山古墳群に限らず古形式の前方後円墳等が数多く存在し、その発生起源解明に絡む貴重な資料(ヒント)をいろいろとプレゼントしているように思う。後年の研究に委ねるためにも、今後、古墳等遺跡の発掘に当たってはこれらのサンプルを採取、保存するなどの措置が講じられてしかるべきである。 

  古墳から発掘された遺物が県外に流出したものも多い。文化の特異性が失われつつある今日だからこそ、地域の遺物は地域で公開され或いは研究の対象として地域で保管・管理されるべきであろう。そうすることが人々の地域文化への誇りをも一層育み、歴史的遺産の保存、活用等にもっともっともっと関心が寄せられるだろう。
  北大塚古墳や猫塚、姫塚などの墳丘に立つと、讃岐平野や瀬戸内海の素晴らしい景観に接することができる。そこには先人がこよなく愛したであろう絶景がある。-平成15年12月-