山に登った石船(野田院古墳)−善通寺市−
野田院古墳1  善通寺の大麻山(616メートル)の山腹に野田院古墳がある。古墳は、全長45メートル、後円部の径21メートルのほどの割石造りの小さな前方後円墳である。善通寺にはこのほか確認済みの古墳だけでも400基ほどある。
  野田院古墳は、発生期の前方後円墳として大変興味深い。古墳は、謎の多い前方後円墳の築造経緯やその特異な形状を解くヒントを幾つか提供してはいないだろうか。
  大阪の大仙陵や奈良の景行陵など畿内には巨大な前方後円墳が数多く存在する。しかしこれら墳墓を築造する権力や富を支えるに足りる進化した稲作は、九州から瀬戸内沿岸沿いに畿内に伝播したと考えられ、これらの地域では、畿内より早く豊かな富を蓄積する豪族が存在していたであろう。また、中国大陸や朝鮮半島から新鋭の土木技術や金属利器、地金を移入し易い地理的優位性があった。このような諸状況を考慮すれば、前方後円墳は、畿内で突然、出現したものとは考えにくい。畿内より西の地域で前方後円墳の基本形が考案され、畿内を含む東方の地域に伝播していったと考える方が自然である。そのような意味でも、善通寺の野田院古墳は、築造年代も古く大変興味深い。
  善通寺の広田川流域では、弥生時代から古墳時代後期に至るまで連綿として墳墓が築かれた。その生い立ちを俯瞰すれば、野田院古墳は、ひょっとして前方後円墳の原初形だったかもしれない。前方後円墳の基本形が善通寺で考案され或いは完成し、瀬戸内海沿岸伝いに畿内や九州、中国地方に伝播したのではないだろうか。野田院古墳はそのような夢を抱かせるに十分である。ちょっとした創造が流行を生むことは古代にも当然通ずる。古代に流行った日本特有の墳墓である前方後円墳は、そのようなちょっとした着想から考案され、徐々に進化を遂げながら次第に巨大化していったという可能性も否定できないのではないだろうか。加えて、瀬戸内海は、海水面の上昇によって縄文前期に開通した文化を運ぶ海の道だった。今日私たちが考えるよりはるかに速く伝播されたであろう。
  野田院古墳の後円部は、竪穴式石室はもとより後円部全体が積石造りである。前方部は盛り土である。古墳は大麻山の小さな尾根に沿って築造され、尾根の下方部が後円部となる造りである。しかしこの古墳築造に当たった技術者は、古墳の基軸を単純に尾根上に置かなかった。この点が非常に重要であり、前方後円墳の考案に通づる貴重な情報を提供してくれている。
  つまり、古墳の基軸を意図的に尾根の中心から逸らし、側面の割石を高く積むことによって地上から目立って見えるようにする設計意図があった故であろう。加えて、後円部をそのような場所に置く場合、石積みのほうが決定的に安定度を増すのである。後円部の形状は、弥生時代に築かれた稲木山墓のような積石塚の伝統がそのまま活かされた。前方部は、古墳近くに露出する安山岩(割石)を運搬した搬入路に当たる。後円部の石積作業が進むにつれ接合部分は当然に狭く括れる。平地に野田院古墳の規模程度(直径21メートル)の円墳(後円部)を積石で築く場合、大がかりな搬入路は不要である。山の尾根上に置く場合も似たようなものであろう。墳墓の基軸を尾根の中心から逸らしたため、土木作業の必然として搬入路が築かれたのである。
  また、尾根筋であるため、後円部脇に平地がなく築造後に儀式を行う必置のテラスとして、後円部が完成した後、搬入路を土で成形し前方部が設けられた。土木作業の工程と墳墓築造後の用途を考慮して、一片の無駄もなく効率的に野田院古墳は築造されたのである。平地や稜線上に置けば容易に野田院古墳3築造できる円墳墓を敢えて地上から大きく立派に見せるため、墳墓の基軸を尾根筋から逸らし後円部を築造するというちょっとした着想が必然的に前方部を生み、ここに日本特有の前方後円墳が誕生したと考えられる。かつ、野田院古墳は前方部が石で葺かれておらず、善通寺以東の坂出、高松(石清尾古墳群等)、津田の地域に散在する前方後円墳と比較しても特異である。単純に考えて、前方部に葺き石の施工がない野田院古墳を含む善通寺の前方後円墳が古式であると思われる。前方部に葺き石が存在したとする調査結果もあるが、当地区における他の前方後円墳の諸式から推してにわかに信じがたい。加えて、積石塚の源流を中央アジアに求め、朝鮮半島を経てわが国へ伝わったとする説を唱える者がいる。しかし、その伝播経路である北九州や瀬戸内海沿岸に古式の積石塚などの知見があるのだろうか。前方後円墳の原型を含め、朝鮮半島や北九州のそれらは時代的には善通寺を降る。玄界灘に相島(あいのしま)という孤島がある。この島は、江戸時代に朝鮮通信使の逗留地として知られ、通信使はこの島から下関に向かい瀬戸内海に入った。古代においても、朝鮮半島から那の津(博多)経由或いは直通ルートをたどるにしても、相島は中継地点として重要と考えられる。この島に二百数十基の積石塚相島積石塚(写真下)が確認されている。しかし築造年代は野田院古墳を降る5世紀以降の墳墓である。
  讃岐における石の加工技術は先史時代から培われ、讃岐の山腹においていとも簡単に調達できる古墳の骨材としていち早く注目されただろう。かつ墳墓は立派に見える。
  弥生時代に平地で造られた墳墓が比高差400メートルの高地に現れる野田院古墳の不思議は、古代信仰の岩盤(いわくら)=積石塚の連想が浮かぶが、墳墓を首長の権力の象徴とするほどに弘田川流域の支配地における生産力が急激に高まり、支配地を見下ろせる大麻山の観望の秀逸さが墳墓の適地と判断されるようになり、かつ標高の高低が権力の相対的な基準として人々に認識されていた時代の証であろう。
  野田院古墳は、後円部の二段目から上の部分が欠けているが、築造当初には、地上から古墳を見上げると、山に浮かぶ石船のようにみえたであろう。地上からみても立派な最新式の墳墓は他地域の首長にも大いに目にとまり、瀬戸内海を通じ坂出、石清尾山等の高松、津田の地域の前方後円墳(割石塚)を経由して時間をかけ畿内や瀬戸内海沿岸の各地に伝播した。そうして、時代をふるほどにその遠源が忘れられ、段積みの形や石葺きなどの形式だけが諸国の王墓に受け継がれ巨大化していったと考えられる。墳丘周りの瓶は後に埴輪へと変化する。墳墓の前方後円墳は突然、畿内で出現したものではなく、比較的長い年月を経て讃岐から四方に伝播していったと考える方が合理的である。
  今後、積石塚の築造年代につき、墳墓から発掘される炭化物や墳墓とその周辺の土中の花粉、岩石の打撃痕等の分析から科学的な考究が成されるべきであろう。ひょっとして野田院古墳などの積石塚の築造年代は、紀元2、3世紀前後にまで遡るのかもしれない。
  いずれにしても善通寺の野田院古墳は、前方後円墳についての大変貴重な情報と夢を私たちに提供してくれている。古墳周りは公園化されアクセスもよい。現地を踏まれるとよいだろう。
  また、銅鐸の発生起源や弥生社会から忽然と姿を消す不思議について、私は、雨乞いにかかる祭祀と密接に関係していたが、気象の変化によってその風が下火になりやがて忘れられる過程のなかで、一連の不可思議な現象が生じたものと考えている。こちらの概略は、後日紹介することとしたい。-平成15年10月-  →銅鐸