阿讃の峠(相栗峠) その2 −香川県高松市塩江町、徳島県美馬郡美馬町-
(戻る)
 近年、農村の大屋根住宅は、生活習慣の変化などによって姿を消しつつあるが、阿讃の山間部や九州鹿島犬王袋 、肥前浜(有明海))、白石川副の各市町の有明海沿岸部や西肥前の山間部、広島の賀茂台地、京都の丹波地方(美山)などに比較的多く残っている。
 左の草葺住宅の写真は、四国山地の村で40年ほど前に撮影されたものである。丸亀市でカメラ店を経営されている玉屋のご主人から譲り受けたが、撮影の三日後にこの住宅は取り壊されたとのことであった。ちょうどこのころ、日本の農村は高度成長期のはしりの時期にあたり、米価の水準も比較的良い時期であったから、住宅の建て替えが急速に進んだ時代だった。玉屋の主人は、音を立てて崩れてゆく大屋根住宅をしっかりとみつめ印画紙に焼き付けられたのである。写真が生きている。半世紀にわたりカメラ一筋に生きてこられた眼に狂いはない。縁側で談笑する二人の少女をみるとき、この時代の健全さが手にとるようにわかるのである。
■ 丹波の民家(大屋根住宅)
 JR山陰線の車窓から由良川の河岸段丘に発達した大屋根住宅を眺められるとよい。下山、和知、山家地区など、集落に散在する大屋根住宅が次々と移ろう風景は、日本の伝統的な山村風景。目に染み入る美しさがある。由良川の源流部、美山において由良川の農村住宅は千古の光を放つ。そこは丹波高原の原初の姿を髣髴とさせる自然と人々の営みがある。
  丹波地方は米作を主体とし、かつては農具の保管や農耕牛の飼育が住宅内や附帯の納屋などで行われた。大屋根住宅の規模は大きく、春秋の風景は秀逸である。
  丹波の深い幾筋もの山襞を縫って流下する由良川の支流域においても、綾部市の上林、吉美、上村、殿貝、今田、物部、大畠地区や大江町などで大屋根住宅はいまなお健在である。とりわけ上林川の流域に展開する府道1号線沿いの上林地区(写真左)は、大屋根住宅が濃密に分布するところ。大屋根が縦横に重なり合い里山と稲田にとけあう風景はおとぎの国を思わせる。府道1号線は、丹波の大屋根街道、‘丹波のまほろば’へ私たちをいざなう道である。私たちが失いつつある山村の記憶を大屋根住宅は蘇らせてくれる。実に日本の風土によく似合う。
 ■ 丹波の草葺住宅
 上林川、土師川、二瀬川などの流域に、草葺(藁屋根)住宅が10棟ほどある。これらの住宅は民家として使われており内部の見学はできないが、大本総苑(綾部市)の木の花庵(旧岡花邸、下の画像・木の花庵クリック))は申し込みをすれば見学できる。同住宅は船井郡瑞穂町から移築された17世紀中葉の入母屋造りの草葺(茅葺)住宅である。柱、梁などに栗材が用いられ、板間の上がり座敷に囲炉裏が切られている。土間にクド、牛小屋などがある。丹波の古民家を代表する建物である。
 上林川の支流域に現存する草葺住宅は棟に千木を架け上部に真竹が渡してある。愛媛県宇摩郡別子村にあったものを同美川村に移築した旧山中家住宅と上部構造が似ている。丹波地方においては、ホテより千木が先行する棟様式のように思う。
  天田郡三和町の国道173号線沿いに、入母屋造りの草葺住宅がある。下屋根がなく棟の両端が反りあがり、一気に葺き下ろされた屋根は重厚、雄大である。愛媛県の土居家住宅と屋根構えが大変似通っている。
 同じく三和町に大原神社の絵馬殿や大原の産屋など希少な茅葺建築物がある。産屋は妊婦が7日7夜過ごしたという切妻の小さな建物。昭和30年ころまで実際に使われていたという。
  三和町内の川合の街道筋には、茶堂が立ち、田圃にハサ(稲城)がみえる。三和の町は、古色が漂うなんともよい雰囲気がある。
  府道9号線沿いの大江町毛原に残る草葺住宅は、棟に数本の真竹を渡し、その上を稲藁の束で押さえてある。香川県下では、この種の稲束を「ホテ」と呼ぶ。草葺住宅の棟仕舞は、葺き替えや雨水対策上、大変重要であるが、桟瓦で葺いたもの、千木をかけたもの、ホテで押さえてあるものなど丹波の棟様式は多様である。愛媛県四国中央市金生町切山に残る真鍋家住宅は「ホテ」をいただく典型的な住宅である。
 由良川支流・八田川流域の綾部市吉美地区は大屋根住宅が並ぶ美しい郷である。高倉宮以仁王縁の高倉神社聖塚などの方墳が残るところ。一辺54メートルもある聖塚は全国最大級の方墳である。保存状態も大変よい。私市の丸山古墳(直径70メートル)とともにこの地方の文化を伝える先人の貴重な遺産である。秋になると高倉神社の秋祭りで、御旅所で田楽(ヒヤソ舞)が演じられる。