京都
聖塚の風景−綾部市多田町−
 由良川の支流八田川が吉美盆地(綾部市)を潤す。その中央部の多田町に聖塚(写真上)、菖蒲塚古墳が隣接(約100メートル)して所在する。古墳はともに方墳で、周濠と造り出し部がある。方形の一辺は聖塚54メートル、菖蒲塚30メートル、周濠幅は聖塚12メートル、菖蒲塚6メートルあり、外表施設として石葺、埴輪列が認められる。両古墳は、出土遺物等から古墳時代中期前半(5世紀前半)の築造と説明されている。聖塚はその規模において全国最大級の方墳である。由良川を数キロ下ると、私市円山古墳(造り出し部をもつ円墳。直径70メートル)が所在する。こちらの古墳は京都府下最大の円墳である。
茶臼山古墳 八田川を遡るとその支流域に‘高槻’という地区がある。一帯は緩やかな傾斜地に水田が開けている。水利はため池。茶臼山古墳(前方後円墳。全長54メートル。写真)や東山1号墳(前方後方墳。全長34.5メートル)が所在する。築造年代は前者が5世紀末、後者のそれは古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)と言われる。
 由良川のささやかな支流域でこれほど多様で特色のある古墳が所在する村々の開発者や地方豪族とヤマト王権とのかかわりなど八田川は私たちに限りない興味を与えてくれる。

 聖塚が築かれた時代は、応神天皇に続く仁徳天皇や雄略天皇など倭の五王が極東の覇権を夢みて、大陸(南朝宋)に雄飛した時代だ。聖塚はそんな時代の雰囲気を感じ取ることのできるモニュメント。
 聖塚の被葬者は甲冑に身を包み、剣を佩き、倭の五王とともに大陸に雄飛し戦いに明け暮れたこともあった県主(あがたぬし)ほどの人物であろうか。聖塚はそんなことを想像させるほど特色のある大きく、立派な古墳である。
 吉美盆地に聖塚が築造された時代は倭の五王の時代と重なる。倭人たちは弥生時代から鉄を求めて南朝鮮に渡海し、4世紀末には北朝鮮のピョンヤン付近にまで侵攻する倭軍もいた。
 景初3(239)年、卑弥呼が魏に朝貢し、266年が西晋に朝貢して以来、倭国は約100年にわたって中国王朝や朝鮮諸国との没交渉時代が続く。かんがい等農業土木や建築、鍛冶、製糸・縫製から美術・工芸に至るまで朝鮮諸国と倭国との文化的格差は拡大の一途をたどったことであろう。朝鮮諸国は帯方郡や楽浪郡の経営など中国王朝の植民地政策を通じ、中国の高い文化を吸収していたから、その差は容易には縮まらなかった。
 倭人は朝鮮半島にしばしば侵攻し或いは任那の経営を通じ、半島から技人を連れ帰り、歴史時代に入っても博士や僧、伎人の招聘などが続き、倭国の朝鮮諸国への文化的隷属はおそらく8世紀のころまで尾を引き、遣唐使が廃止(894年)されるころようやく対等になったと考えてよいだろう。
 約百年続いた朝鮮との没交渉時代の終焉は風雲急を告げる中国の政治情勢と高句麗の南下が引き金となった。百済や新羅、弁韓など3世紀におこった朝鮮南部の新興諸国は高句麗の南下に大いにあわて、4世紀中葉にまず百済が倭国に接近し、倭国は大陸への進出のきっかけを得たのである。つまり、4世紀初頭に高句麗は中国王朝の支配地であった帯方郡や楽浪郡を版図に治め、西に向かったが西暦342年、前燕の慕容(ぼようこう)に都(丸都城)を陥れられ、西進をあきらめた高句麗は朝鮮半島を南下しはじめる。驚いた百済は364年、通商を求め倭国に接近する。以来、倭国は百済と親交を深め朝鮮半島に進出する足掛かりをつくり、やがて朝鮮半島に進出するようになる。372年、百済王は倭に七枝刀を贈っている。倭国の軍事力が百済に一目置かれたというわけだ。インカ帝国がピストルで武装した少数のスペイン人にいともたやすく滅ぼされたように、武器の優劣が勝敗を分かつ。倭国はさかんに朝鮮半島に鉄を求め、渡来の鍛冶技術を携えた技人を使い鉄器を製造し、武装した軍団を編成し、朝鮮半島の奥深くにまで侵攻したのだろう。ヤマト王権は、それを支える膨大な数の漢人、秦人を渡海させたと言ってよい。
 日本書紀の応神記や仁徳記は帰化人の渡来に多くの誌面を割き、押し寄せる渡来人のさまを記している。ヤマト王権は渡来人の力を得て、鉄器のみならずため池や水路を切り拓き、堤を築き、田地を拓き、鍬先に鉄をはかせ、倭国に農業革命を引き起こした。その富が巨大古墳に化けたのだ。聖塚はそんな時代の覇気を感じさせる古墳にみえる。
 円山古墳の被葬者が眼下にひろがる由良川の氾濫域を制し、農業生産を生起させたように聖塚の被葬者は由良川の支流・八田川の氾濫域を制して古代農業王国の礎を築いた王者であったに違いない。その地位はともに後年、制度化された大領ほどの力を蓄えた人物ではなかったか。八田川をさらに遡ったところに所在する茶臼山古墳は、八田川流域の開発に伴って勢力を伸張させた覇王と思われる。ここには既述の東山1号墳というなぞに包まれた古墳がある。草創期の前方後円墳の可能性もあり、ヤマト王権との密接な関係が指摘できよう。古事記の仁徳天皇妃・「八田(・・)若郎女(やたのわかいらつめ)」の記述とも重ね合わせると、この地域には限りない古代ロマンが眠っている。

 さて、ヤマト王権は応神朝を境に国威を劇的に発展させ、富国化した。倭の五王の一人・倭王‘武’とみられる雄略天皇の世紀に至り、倭国の武威も極点に達し、とうとう彼は極東の覇権を夢をみたのだ。怒涛の転進は、倭国が騎馬民族によって建てられた国と推されるほど劇的な躍進だった。倭王‘武’は南朝に対し、壮大な上表文をしたため、「開府儀同三司」の称号授与を求めたのである。しかし、要求は容れられず倭国王の位階はいつも高句麗、百済の後塵を拝した。中国王朝の朝鮮半島諸国に対する政治的配慮もあったのだろう。以降、倭王武は再び中国王朝に遣使することはなく、中国との没交渉時代が続くこととなった。−平成20年8月-

 八田と八田皇女のこと
 
  京都の北部、綾部市に八田(やた)という地区がある。そこは標高100メートルから200メートルの山々のはざまはざまに由良川の支流・八田川が刻まれ、段丘上に小集落がひらけている。律令時代には何鹿郡八田郷と呼ばれたところ。流域に島萬神社(八田郷。西八田・中筋)とその北西1.5キロのところに福田神社(志麻郷。上八田・福田)、由良川との接合部(位田橋上手)右岸に御手槻(みてつき)神社(吉美郷。位田)など式内社が所在する。またそこは、古くからひらけた証のように、古墳時代前期から後期に至るまで連綿として墳墓が築かれ、方墳、円墳、前方後方墳、前方後円墳が混在し、墳墓の展示場のようだ。
 この地方の湿潤な気候は養蚕に適し、郡内の漢部郷(現在の綾部市)は当時、雄略記が伝える漢人の定住地だった。とりわけ由良川の支流である上林川、八田川、犀川にはその繁栄の証とみられる古墳が数多く築造されている。それら河川の流域を検分すると、今でも谷川の吐き出し口にため池が散見される。ため池の築造と韓鍛冶による農工具等の製造が、当地の稲作や桑などの生産基盤を支えていたのだろう。渡来の時期は、ヤマト王権(河内王朝)の成立期から倭の五王の隆盛期に当たる五世紀末と考えられる。
 しかしこの地方には、弥生時代の方形周溝墓や高槻の東山1号墳(前方後方墳)の存在など古墳前期とみられる墳墓が存在する。それは築造の形式などが高句麗の葬送文化と相似形をなしている。弥生期から日本海を経由して韓人が絶え間なく渡来していた証ではないだろうか。
 応神朝等における秦人の渡来はその規模等から国家戦略的な側面を感じさせるが、弥生期の渡来は部族或いは家族単位で大陸から渡来したものとみられる。記紀に描かれない現実があっても不思議ではない。正史の前には必ず前史がある。ローマは一日にしては成らないのである。
 明治28年、郡是製糸が発足し紡績業を始めると八田など何鹿郡内の農家は未墾地の開墾や綿・アワなどの栽培地を桑畑にすきかえ、綾部は一躍「蚕都」となり、郡内の養蚕家は4800戸(農家戸数の59%。大正14年)にも達した。創業者の克苦の気概と気象条件がいかに養蚕や紡績に適していたかがよくわかる。
 八田は皇族の名に冠せられた地名として記紀にあらわれる。倭名抄や平城京出土の木簡に八田(部)の名がみえる。木簡は2枚発掘されていてうち1枚に「丹波国何鹿郡八田郷/戸主秦」とありもう一枚には「□□□□鹿郡八田里庸米六斗・○持□」と墨書されている(いずれも庸米などに付されら荷札。奈文研木簡庫のビッグデータから引用)。後者の木簡に庸米6斗とあり正丁、次丁に課された労役を米で償った(1人3斗)とみられるが車馬や船の輸送は認められていなかったので徒歩で平城京まで運んだのであろう。もっとも庸布で治める戸もあったのでこちらは米より軽量で搬送は楽でも織り上げるまでの労力をおもうと、農民は納税(物納)の選択も相当、思い悩んだものとおもわれる。
 平城京から出土した他郷の木簡(荷札)に谷田郷と記されたものがあるが「八田」同様に秦の借字と考えられる。
 「古事記」は仁徳天皇の妃を八田若郎女(やたのわかいらつめ)としるし、「日本書紀」は同女を八田皇女(やたのひめみこ)」としるす。異母兄である仁徳天皇の妃となった人でどうも八田から嫁いだ人ではないようである。
 地名辞書によると倭名抄掲載の八田郷について、「いま東八田、西八田に分かつ」とあり現在の綾部市上八田町、下八田町に比定される。そうすると八田は仁徳天皇の妃である八田皇女(八田若郎女)の御名代・小代である八田部であったと推することもできる。
 しかし、宋書や百済記、日本書紀などの記録から仁徳天皇を4世紀末から5世紀前葉に在位した天皇・倭王讃(421〜430年に3回朝貢)に比定すると、八田皇女は倭王讃の妃であるから同時期に御名代・小代制が倭国に存在していたことになる。
 一般的に、御名代・小代制は5世紀半ばに設定されたとされるが刑部(允恭の后)、孔王部(安康)などの名が付された部民の存在は8世紀に作られた川辺里戸籍(日本最古)などの断簡や平城京跡から発掘された木簡などからその存在が確認されるものの制度の設置年代を示す根拠にはならない。そもそもわが国の部制は百済の郡司制にならい5世紀末に編成された品部に始原し、旧来のトモ(統率者を伴造という)や豪族の私有民も品部にならい‘部’と称されるようになるが、御名代・小代制が5世紀中に編まれた確証はない。御名代・小代は多分、その成立を古く見せるための旧辞的部分の粉飾であって、実際は朝鮮の制度に倣ったもので6世紀以降に成立を見たと考える方が自然である。
 私は記述のとおり「八田」は秦(はた)の借字ではないかと思う。漢部郷の漢人とは異なる集団として当地に入植し、開拓に当たったのだろう。八田川流域の墳墓から発掘された埴輪などの存在はこの地方特有の特徴が認められるものの、その築造に係る技術や規格はやっぱりヤマト王権の権力機構に組み込まれた技人によって指導されたのだろう。その牽引力、接着剤となった者が渡来人である秦人であり、養蚕や機織等を通じ王権のトモをなしていたと考えられる。倭人が突如巨大な墳墓を築造し、織機を操るなどの技術を持ち合わせていたとは考えづらい。したがって、当時、八田に住まいした秦人は中央のトモ(伴造)に率いられ、その統率下で蚕を飼い、織物や食料などを納入する民であり続け、領地は仁徳天皇の時代に皇室に施入され八田皇女に伝領されたと考えられる。八田部の名称は、後年の郡司制の導入にならい八田に‘部’の名称を付したものであろう。

 倭国は卑弥呼以来、1世紀半も途絶えていた大陸との通交を再開し、朝鮮半島に進出し西暦391年、今のピョンヤン付近にまで兵を進め、侵奪を繰り返した(好太王碑文)。それがヤマト王権であったのか、北九州の豪族であったのか特定できないが、応神天皇14年の条に弓月君が百済からきて、その翌々年に本国の120県の人夫が帰化したことが、日本書紀や百済記の記述からわかる。もっともだいぶ誇張した記述であろう。秦氏や秦人は弓月君を祖としている。後年、祖先は秦の始皇帝と名乗っているが、家柄を誇張するためのもので実際は高句麗の圧力によって廃された帯方郡や楽浪郡の亡命韓人と思われるが、楽浪郡の漢人が含まれていていたことは想像に難くない。秦人らはハタ(機織)の技術を携えていたから、秦をハタと呼びならわしたとする説が一般的である。
 渡来人のうちでも西文氏は小人数で渡来し応神天皇陵近くの古市に定住したが、秦氏や秦人は養蚕や織機、鍛冶など様々な技術を携えた集団であった。大方は農民で、全国に分散、定住をしていく。当時、八田を拓いた秦人が応仁天皇の時代に渡来した夕月の君の後か或いはもっと古い時代に朝鮮半島を出て日本海沿いに漂流し、由良川をさかのぼるり八田に入った集団か定かでないが、私は多分、後者の経過をたどり八田を拓いた渡来人がいたのではないかと思う。ため池を築造し水利を整え田を拓き、畑に桑をつくり蚕を養って織機によって布を織る技術は彼らが伝えたのではないかと思う。絹は強い需要に支えられ、ヤマト王権のトモたる伴造の経済力も飛躍的に向上したことであろう。そうした秦人の経済力を示すモニュメントが八田川流域に築かれた聖塚など古墳時代前期〜中期の墳墓ではないか。
 弥生時代からコメつくりのみを生業とした在来の人々は食べていくのが精いっぱいで、王者は到底、古墳を築くほどの富を蓄積することは困難とみられる。商品作物である桑を栽培し、織機を用いて絹織物を生産し、人を蓄え、富を蓄積した王者にしてはじめてなしえた古墳の築造であっただろう。築造規模において古墳時代の極点に達した応神〜仁徳期に八田川流域においても盛んに古墳が造られるようになる。墳墓の被葬者は支配地を徐々に拡大しやがて由良川中流域を治め、ヤマト王権のトモである伴造に生産物を献納し、力を蓄え八田川流域に墳墓を築き得たのだろう。ヤマト王権のトモたる伴造と結びつき何鹿の王者となった八田出自の統率者は、私市円山古墳の被葬者に先立ってこの地方を支配した県主ほどの地位を得た秦人に違いない。-平成20年8月-