滋賀
義仲寺と芭蕉−大津市馬場−
 大津市内のJR膳所駅から琵琶湖畔に向かって緩やかな下り坂を歩き数分のところに義仲寺(写真)がある。境内は蕉風の歌碑で満ちている。寺というよりは庵、庵というより俳人窟の趣がある。境内の近くは近代的な店舗が建ち並ぶ繁華なところであるが、一帯は、湖国の粟津原とよばれたところ。古図を眺めるとそこは津に近く、野原をなしている。
 寺は天下の覇権をうかがって上洛し、義経らとの戦闘に破れ落命した木曽(源)義仲の墓所。義仲の側室巴御前らによって相当古くから、供養されていたようである。義仲の墓の裏手に「無名庵」がある。松尾芭蕉が貞享2(1685)年ころから元禄4(1691)年にかけしばしば滞在し、門人と風雅を通わせたところだ。元禄7(1694)年10月、大坂で没した芭蕉は、遺言によって当寺に葬られたという。墓石面の芭蕉翁の文字は榎本其角の筆。病を得た芭蕉の晩年であったが多くの門人にそわれ居心地のよいときを過ごしたのであろう。数々のよい句を残している。元禄3年秋(旧暦)には8月14日(宵待)、15日(名月)、16日(十六夜)の3日間を月の本来と名づけ句に興じ14日は門人の楚江亭に遊び、15日は木曽塚(無名庵)に集まり、16日は湖上に舟をうかべ堅田の浮御堂に遊んだことがことが「笈日記」にみえる。
    まつ宵はまだいそがし月見なり  <支考>
    米くるゝ友を今宵の月の客  <翁>
    やすやすと出ていざよふ月の雲  <翁>

木曽義仲のこと
 寿永3(1184)年1月20日、粟津原に散った武将がいた。源義仲である。寿永2(1183)年5月、越中国の倶利伽羅峠の合戦で平家10万の大軍を撃破し、上洛した人物。勢いに乗って平家一門を洛中から駆逐し、安徳天皇や建礼門院を奉じ落ちていった平家を西国に追った義仲だった。
 義仲が備中国小島で平氏に敗れると、後白河法皇が源頼朝に義仲追討の院宣を下す事態に発展。再び入洛した義仲は法皇を五条東洞院に幽閉し、こんどは逆に頼朝追討の院宣を得て、自らは征夷大将軍となり、後鳥羽天皇の摂政藤原基通以下の廷臣を解任。義仲、頼朝の対決は時間の問題となった。
 寿永2(1183)年12月、頼朝は弟の義経、範頼に上京を命じた。両軍は勢多・宇治で激戦を交えた。倶利伽羅峠の合戦で智謀ぶりをみせた義仲だったが、義経の前に抗しようもなく、近江の粟津原の露と消えた。享年31歳。義仲、義経という当代の代表的な武将が激突する戦場の高みで、後白河法皇や頼朝はひややかに戦況を分析していただろう。平家は、義経に追われ一の谷、屋島に破れ、終に西国の果て長門の壇ノ浦に滅んだ。
 義仲と郎党は、しばしばその粗野な行いが取沙汰されてきた。古代政権の残影を滲ませる平家を打倒し、武家(封建)政権を樹立する先鞭を切った義仲。歴史を近世に導く重要な役割を果たした。俳壇における芭蕉もなお、義仲の気風に通づる何かを感じたのかもしれない。−平成20年−
木曽のじょう雪や生えぬく春の草  <芭蕉>
参考:暗峠越えの道 堅田の浮御堂