京都
大住隼人舞−京田辺市大住−
大住車塚、南塚
(写真後方)古墳
隼人舞(天津神社
境内)
 京都府の南部に大住(京田辺市)というところがある。生駒山地の北端・男山丘陵に連なるなだらかな丘陵に展開する町である。そこは甘南備山(標高217メートル)の北麓にあって、京都盆地を見渡せる丘陵をなし、古来から農業生産が盛んなところである。水稲をはじめナス、キューリなどの野菜を栽培する農家が多い。
 当地田辺市は近年、鉄道や幹線道の整備が進み、学園の進出や住宅開発が盛んな近代的な町である一方、樟葉宮(現枚方市)で即位した継体天皇が大和に入る前の一時期、筒城宮を営み、また大住車塚古墳(前方後方墳。写真上)や古代の延喜式内社が散在するなど古い歴史のある町である。
 大住は律令制下、南九州から移住した隼人が住む郷であった。正倉院宝庫に多くの隼人の名がみえる大住郷の計帳戸籍の断簡(戸籍の裏面を再使用するため、任意の長さに切断された戸籍の紙片。造東大寺司等に払い下げられた。)がしられていたが、国郡不詳であったため永くその所在が不明であったところ、戸籍の研究が進展し断簡中の大住郷は畿内の大住郷と推定されるようになったのである。大宝2年(西暦702年)作成の筑前国嶋郡川辺里戸籍から北部九州の前原(まえばる。福岡県)に肥君猪手(ひのきみいなて。遠祖は熊本県)が住んでいたことがわかり、当時、人々の移動はかなり柔軟であったことがわかる。開拓等に伴う移住は各戸の民を募集し行う今日的な手法ではなく、昔は族長が一族郎党を引き連れて移住する形態が一般的であり、隼人の大住郷への移住も多分そのようなものであったのだろう。断簡に載る実に83パーセントの者が隼人である。大住という名称も鹿児島南部地方の「大隅」に通じ、隼人の移住の記憶を滲ませている。
 大住地区は、周濠を備える大住車塚(全長66m)や大住南塚(全長71m)古墳(写真上)が所在するところ。いずれも珍しい前方後方墳である。築造は4〜5世紀ころと推定されていて、ヤマト王権が強大化した倭の五王の時代のものだ。そのころ隼人が当地に移住し、ヤマト王権に僅仕し、警護や歌舞の任務に就いていたものか。隼人舞は、朝廷の慶賀の折、朱雀門前等において国栖奏などとともに王権の権威発揚に大いに役立ったことであろう。
 終日、稲刈りに追われた大住の田園に夕闇が迫るころ、鎮守から笛、太鼓の音が聞こえる。今日は大住各地区の秋祭りの宵宮。午後6時半ころから天津神社の境内で、午後7時半ころから大住町西八区の月読神社境内で隼人舞の奉納が始まった(写真上)。神楽の基本を踏まえ、ゆかしく勇壮な曲が次々と上演された。本年10月23日には平城遷都1300年によせて平城宮跡(まほろばステージ)で大住隼人舞が上演されるとのことである。−平成22年10月14日−