大阪
樟葉宮址−枚方市樟葉−
楠葉くずはの御牧の土器造 土器は造れど娘のかおぞよき あな美しやな あれを三車の四車の愛行てぐるま にうち乗せて
受領の北の方と言はせばや   <梁塵秘抄>
 樟葉くずはは古事記、日本書紀にあらわれる歴史のあるところである。
 上代、武烈天皇が崩御し、皇嗣が絶え、大伴金村らの働きによって越前三国にいた男大迹王おおどのおおきみが迎えられた。応神天皇の5世の孫彦主人王ひこうしのおおきみの子で、母は垂仁天皇7世の孫の振媛であると法王帝説は説いている。ときに58歳の王であったという。
 男大迹王が河内の樟葉宮に入り、即位(507年)し、継体天皇となる。樟葉は淀川沿いにあって、内政、外交を執るのに地の利があったのであろう。枚方市域になる貴船神社の辺りが樟葉宮の伝承地(写真左)である。天皇の樟葉滞在には、北河内を本拠とした馬飼部の貢献によるところもあったといわれ、舟運による繁栄もあったかと思われる。 天皇は、樟葉に数年滞在の後、山背国筒城、弟国を経て、大和磐余の玉穂宮に遷ったと書紀はしるす。その間、実に20年を要した。
 継体天皇と筑紫の磐井
 継体天皇のかなり長期に及ぶ樟葉滞在と大和入りについて、当時、北部九州にいた筑紫君磐井との覇権争いに大いに関係があるのではなかろうか。朝鮮半島では高句麗の南下と新羅の強権化によって日本は任那を失い、同盟国百済の危うさが増していた。ヤマト王権は失地回復に新羅出兵を企て、6万の兵を西下させたが、磐井が近江毛野の進軍を阻む事件がおこる。ヤマト王権は大将軍物部麁鹿火あらかいを送り、筑紫の御井郡に戦い、遂に磐井を斬って1年半に及ぶ反乱を鎮定する。
 継体天皇が樟葉を立ち、転々と宮をかえる原因は、磐井の勢力の伸長による後退ではなかったか。それは藤原広嗣の乱が聖武天皇の身辺に大きな不安、動揺を与え、天皇の度重なる伊勢、山背などへの行幸や恭仁宮遷都などへの誘因となったことをみても推察できるのである。麁鹿火が磐井を斬ったことによってようやく毛野は任那に渡ることができた。日本書紀は任那を復活させたと説くが疑わしく、任那諸国は新羅や百済の草刈場となり、任那の割譲が進んでしまう。麁鹿火の戦功によって任那に渡った毛野はその失政からか日本へ召還される途中、対馬で死亡する。磐井の残党によって殺害された可能性なきにしもあらずといえよう。
 磐井の乱から任那の割譲の経過を俯瞰すると、結局日本は百済に利用され任那諸国への支配権を失っていった。外交の失敗だった。そうすると、新羅と通じ、百済を牽制しつつ半島政策を進めようとした磐井のよみあながち間違ってはいなかったと推することもでき、金村は磐井を斬ったことによってヤマト王権の存続を堅持した反面、半島政策には失敗したわけである。このあたりから金村は私情によって百済から賄賂をとり、任那を割譲したという風評が生じる素地ができてしまった。継体天皇を擁立し、日本外交の刷新に乗り出した金村政権は、継体天皇の政敵磐井を倒しはしたが結局、外交政策において国益を損ねることになったといえそうである。
近江毛野の帰国
 さて対馬で病死した近江毛野は瀬戸内海を通じ淀川を遡上し、近江に送られた。その妻の歌が日本書紀にみえる。よほど悲しい帰国であったにちがいない。かつて毛野が過ごしたであろう樟葉のあたりに別れの笛が鳴り響き、船は近江へと遡って行くのである。 
  枚方ゆ笛吹きのぼる近江のや毛野の若子笛吹き
  のぼる  <日本書紀>
 継体天は82歳にして崩御したと日本書紀はしるす。墓は茨木市所在の三島藍野陵(写真左下)とされるが疑わしい。高槻市所在の今城塚(写真右下)を継体天皇陵に当てるむきもある。ともに盾形をした前方後円墳で、全長は三島藍野陵286メートル、今城塚350メートルある。
 樟葉は、8世紀に至り行基が久修園院、報恩院を建てたところ。久修園院は今に名跡を継いでいる。平安時代になると、樟葉は牧場となり、鷹匠なども住まいしたところである。また、樟葉は土器造りできこえたところ。梁塵秘抄に標記の歌がしるされている。日明貿易に足跡を残した樟葉西忍入道は、応安7(1374)年に日本に渡来したインド人聖と樟葉の婦人との間にできた子である。
継体天皇陵(茨木市) 今城塚(高槻市)