京都
十倉哀史(農民一揆の実相)-綾部市十倉志茂町等-
十倉遠望
 由良川の支流・上林川の深い峡谷を遡ると十倉(とくら)という町に至る。川に沿って沖積平野(氾濫原)がひらけ一望7里、街道(府道1号線)が集落と美田を分け若狭に抜ける。街道筋の家々の棟飾りがこの町の伝統的な景観を現し、川向こうの深い山が季節の移ろいを映して美しい。
水害記念碑
陣屋跡
十倉はしばしば水害に襲われ、被災と復旧を繰返してきたところ。府道1号線脇に水害復興記念碑(写真左)が立っている。往時(昭和28年13号台風)の水害被害をうつして余りある。
十倉は山家藩谷家の領地を割いて分地された十倉谷家(旗本2,000石。以下「十倉谷領」という)の支配地だった。領主(殿様)は江戸屋敷に住み、領政は代官が陣屋で執った。陣屋跡(写真左)は十倉の水害復興記念碑近くにある。今、上屋は残っていないが往時の絵図が残っており三層に築かれた曲輪遺構と重ね合わせると、一層目に長屋門や牢屋、二層目に陣屋、三層目に米蔵などを配し、坂が曲輪をつないでいる。振り向けば、ちらちらと雪がふり薄氷の張った田を白く染めはじめている。
 貞享元(1684)年、十倉谷領内で百姓一揆がおこった。一揆は宮津文政一揆綾部明六一揆などのように筵旗を掲げ竹槍や鎌で武装した農民が城下に迫る一揆とはだいぶ様相が異なる。
 十倉谷領でおこった一揆は江戸奉公人144人が連判して滞納した年貢の減免を領主谷蔵人に求めたが叶わず、農民代表14名が幕府評定所に越訴(おっそ)した非武装の農民一揆だった。
 幕府評定所は「領分中未進多無法の類」(十倉領地で年貢を滞納するふとどきな輩ども)と切捨て7名を獄門、籠死の死罪に、7名を両国追放に処し、連判人130名とその妻子187人を追放に処した。追放された総数324名のうち一揆参加者を除く204名は享保10(1726)年11月、追放から40余年後に勘定奉行の赦免許可を得て十倉、千原、高倉、里、位田、金河内、内久井の領内各村に戻った。
 時の将軍吉宗は聡明な人物。行財政改革をはじめ罪人の矯正(更生)にも熱心に取り組み、その趣を公事方御定書に反映させた。世にいう享保の改革を推し進め、赦律(恩赦に係る法律)の勉学にも熱心だった。そうした時代の転機に人を得て、十倉領農民の帰郷が叶ったのであろう。
 しかし十倉領を追放された人のうち幾人かはいなくなり、帰郷した者も農地は人手に渡り自立もままならない苦難のうちに一生を終えた人もいたであろう。十倉一揆は死罪になった者や追放された者の多さにおいて刑罰史上、異例かつ残酷極まる一揆だった。追放は罪人を共同体から追い出し、無宿者とされ生活基盤のすべてを断ち切ってしまう重刑。一揆の経緯と真相を探ってみたい。
 十倉谷領は山家藩(初代藩主谷衛友(もりとも)1万6千石。外様)の第2代藩主谷衛政(もりまさ)のとき藩領を割き衛清(もりきよ)(弟)に2,000石(十倉谷領)を分地した。山家藩からいわば分家した領主は旗本され江戸屋敷に住み、領政は代官が陣屋で執った。
 領主は十倉領民の夫役(出役)を得て京都所司代の番方(警護役等)を務めていたようである。大岡越前のような役方(番方に対する事務方の呼称)の蔵米取り(俸給は米支給)の旗本ではなかった。もっぱら十倉谷領の年貢に依拠する知行取り(領地の年貢収入)だった。
 領地は総じて、庄屋等農民を代官に充てることは少なく士分の者を充て世襲させた。代官は役方、番方の両方を如才なくこなし、押し出しのきく者が選任されただろう。綾部市史は十倉谷領の代官(士分)について、十倉谷領ができたとき領主が連れてきたと書いているが、交代がみられるのでさもありなんである。
 代官は米や野菜などの出来、不出来を判定する能力を持ち、作柄を考慮して不作の年に四公六民(年貢率)の年貢額の軽減を判断し、ひどい凶作には年貢引きが求められた。しかし洪水や干ばつなど天災、虫害(ウンカ・コウロギ・ズイムシ等)、獣害(シカ、イノシシ等)などによって不作が見込まれても年貢引きは代官の勝手次第とはいかなかったのだろうか。領主の年貢収入を代官が決めてしまうような行いはご法度。稟議手続きとして江戸役人、領主への説明と了承が要ったはず。しかし農民の主張を容れ、年貢引きを支持し、代官が江戸役人に上申することは鬱陶しかったこともまた事実であろう。代官の領政の手抜きと農民いじめの魂胆がすけてみえると、農民の憤りは極点に達し一揆に至る。
 十倉谷領における年貢額の算定は、寛文4(1664)年〜天和3(1683)年にかけ定免制(何年間かの米収穫高の平均値を求め一定期間、年貢額とした。)を採っていた。十倉領の米麦の平均収穫高など基礎資料を欠くが,、一揆勃発の前年まで約20年間にわたって年貢賦課は定免制によっていた。一揆の勃発前に年貢延滞(「未進」と通称)によって十倉谷家の江戸屋敷に送られた農民(江戸屋敷の雑用に当たり江戸奉公人と呼ばれた)は、血判をもって「…多雨大雨で田畑は半作。代官は検見も十分見ないで不作引きもなされず滞納が多くなっている。…」等々奉公人は窮状を江戸役人に訴え、領主側は滞納年貢の一定期間の免除や夫役の米納等を認めたが奉公人は納得せず、滞納年貢の免除、夫役の廃止、代官の百姓山や蔵米借用に係る不正、江戸屋敷における農民への不当な扱い(みそ、食器、筵(むしろ)をくれない等々)を理由に越訴に及んだのである。 結果は悲惨だった。領主側の言い分が通り農民は死罪に処され、また多くの農民が村から追放された。 −令和5年1月−
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