京都

仄聞 綾部明六一揆の真相−綾部市山家・八田等地区−

上原から広瀬を望む
 北近畿に由良川という川がある。丹波高原から流れ出た川は深い峡谷を刻み、美山、和知、山家、綾部、福知山、舞鶴を経て日本海に注ぐ。
 綾部は古代の何鹿(いかるが)郡漢部郷に由来する町。由良川の南岸域に市街が開け、藩政期には九鬼氏の居城が築かれ・・・山家一万 綾部が二万 福知三万二千石 ・・・(福知山音頭)と歌われた城下町。
 綾部市街の北側は、由良川を挟んで高原状の山地をなす。由良川上流部から上林川、八田川、犀川などの支流が山々を縫い、その段丘上に集落が点在する。上林川河口部の広瀬、鷹栖、対岸の上原、和木などの山家地区。江戸時代には谷氏が一国の居城を構えたところだ。八田川流域の里(村)、小呂(おろ)、有岡などの吉美地区、犀川流域の白道路(はそうじ)などの物部地区はいずれも古代何鹿郡の郷内にあって千年以上の古い歴史のある村。これらの村々は主として由良川北岸に連なり、民俗を共有する。
  明治維新後は綾部に京都府綾部支庁或いは同綾部出張庁が置かれ、綾部が何鹿郡の中心であり続けた。第二次世界大戦後、綾部は周辺の村々を吸収し町から市に昇格。郡是製糸や神栄製糸など養蚕業で栄え、‘蚕都’の名をほしいままにし、並松など由良川の景勝地が絹に彩を添える美しい町だった。
 明治維新の真っ只中の明治初年、この綾部で農民一揆が勃発した。明治初年の激動期における京都府下で、最初で最後の一揆だった。
 時に明治6年7月、由良川本支流域から莚旗を立て、竹槍、鍬で武装した農民が鍋釜を携え、綾部の町に迫った。暴発の危機を憂慮した京都府(同綾部出張庁。以下「官」という。)は旧士族を活用しつつ大阪鎮台に派兵を要請し、陸軍第十八大隊の一隊が出動する事態へと進展。一揆の総勢2000。一揆勢は綾部の要所(熊野神社、里河原、鳥ヶ坪)を押さえ、夜になると大かがりを焚き綾部の町は赤々と照らし出された。
 官の記録によると、蜂起は7日間(7月22〜28日)続き収まったとされる。一揆勢の様子を民間資料(後述)から再現するとおよそ次のようなものであった。
 一 下八田を発ち小呂、星原の同士を加えた下八田隊。主将大槻捨吉(仮名)。一党は綾部市街の対岸、味方(みかた)河原に集結。河原を渡り綾部市街の東門、熊野神社(写真)に陣取った。莚旗三流、竹槍50本、総勢500を数えた。願いが叶うまで幾日も篭城をすると意気込み、夜になると大かがりを焚いた。
 二 御手槻(みてつき)神社(延喜式内社)に集結した里組。有岡などの同士が加わった。大将四方源六郎(仮称)。莚旗三流、竹槍、鍬多数。総勢数百。里河原に集結し橋(白瀬橋か)を渡り陣取った。そこは味方河原の下流で綾部市街の北門に当たる。一説に、里組に位田の同士が加わり、初め里組は里宮の馬場に集結、その後御手槻に移動(位田河原に分団も)、高城山上ではかがり火が焚かれたとも。
 三 栗河原を渡り、鳥ヶ坪に進出した白道路組。主領大槻又吉(仮称)。綾部の西門に当たり、3組中最も西に陣取った。白道路からの道々、同士を糾合し一揆中、莚旗は最も多い五流。物部街道を南下し鳥ヶ坪に至る道筋を想定すると新庄、舘、栗村、中筋辺りの同士も加わったものか、委細不詳。焚いた割木は20両。身の危険を察知した地元の名士羽室家の新婦(一揆の前年(明治5年)、篠山から輿入れ。同年、篠山で一揆が勃発)は下僕に荷物を持たせ近くの村(延村)に避難したが、辺りは大焚火で白夜のようであったという。
 四 由良川最上流部で下流の一揆隊の成り行きを見守っていたのは山家組の首魁小森光次(上原村。仮称)。明六一揆は山家の盟主のもとで仕組まれたようであり、京都府綾部出張庁は最も警戒の手を緩めなかった。一揆勢は上原行者山に結集し、成り行き次第で綾部に迫らんとする勢いを示した。
 一揆は何鹿郡の東端、山家から鳥ヶ坪に至る由良川北岸沿いの村々が連盟し惹起させたものと推され4組のうち3組が川を渡り綾部市街の出入口…東は熊野神社、西は鳥ヶ坪、北は里村(河原)から橋を渡ったところ(場所不詳)…を抑えた。一揆がいかに周到な準備の下で決行されたか知れよう。
 一揆勢の訴願は、次のようなものだった。
 徴兵免除、出火贖罪金(罰金)の差免、小学校の学費減免、断髪の勝手、裸(生活)の容認、社倉籾の積立や延引、牛馬を繋ぐ索綱の規制の廃止等々であった。一揆勢(組)により若干の相違点はあるが似たり寄ったりである。また要求事項は、明治初年に発生した他所の一揆の要求事項と概ね一致する。それは中央、地方政府の執政への不満をぶちまけるものであった。特に徴兵は明治6年1月の徴兵令太政官布告において、‘西人之ヲ称シテ血税トス。其生血ヲ以ッテ国ニ報ズルノ結エ謂ナリ。’とあり文字通り生血を取られると誤解した農民がその免除を訴願したもので、西日本で起こった一揆の主因とされる。
 維新の基本の思想は四民平等。兵役も四民平等と考えるのが自然であり、生血を取られると農民が誤解したとする見解は大分、短絡的かつ農民を見くびった見方であろう。後ほど述べるとおり賎民等身分制度の維持や徴兵の抜け穴に対する農民の怒りが学制等の他要因とも結びつき爆発したと見るのが真相のようにも思われる。
 さて、官は陸軍の出動を要請しつつ、一揆勢に対し明日、訴願に対し回答する旨指示し、明治6年7月28日午前1時、一揆勢は一旦、帰村。同午前6時、満を持して陸軍第18大隊の一隊が園部を出発した。官は翌29日、村々の関係者を2、3名づつ個別に呼び寄せ、訴願に対する回答を行なっている。一揆勢の反発を危惧したのだろう。回答は、徴兵および火元罰金等は聞届困難、学費は難渋者のみ50銭のところ区長、戸長の給料から15銭を出す、社倉籾は村々毎に積置きできないが遠隔地は考慮するので積立場所を相談の上申出ること、断髪は勝手次第、裸は場所を考慮のこと、牛馬の索綱は往還外で差許す…等々を回答。一揆の村々は承諾。不満はなおくすぶり続けたが、血で血を洗う惨事は一応、回避された。
 一揆が鎮まると早速、首謀者の詮議が始まった。22名が逮捕され京都へ送られた。獄死する者2名。裁判の結果、2、3年の入獄や百叩き、叱り置きの刑を受けたという。
 一揆勢の訴願に対する官の回答や首謀者に対する判決を概観すると、学費難渋者に対し村役が援助する等の措置は藩政期の名残であり根本的な改善には程遠くまた、一揆に対する刑罰はまったく藩政期のそれに等しいものだ。判決の立脚点すなわち論点整理の状況が不祥であるがおよそ維新効果が感じられない。何よりも2名の獄死者の存在は、その処遇や取調べの暗部を暗示して余りある。
 山家城址に近く、由良川の段丘上に明六一揆に加わった広瀬町(旧村)があり、鎮守広瀬神社がある。明治6年、広瀬神社の社格は郷社であったが、京都府から拝殿の不備等により郷社の取り消しを受けている。後年、氏子により社殿が再整備され社格を回復している。
 こうして明六一揆は終息。封印された。
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 明治初年、版籍奉還、廃藩置県等によって旧幕体制が崩れると、新政府は国防から日常生活に至るまで次々と新たな政策を打ち出し、国民生活が激変。さらに、徴兵の義務化について、官吏や学者、代人料270円を支払った者、戸主などは兵役が免除されるなど相当、門別等による優遇が認められ、かつ富者に配慮した徴兵制となっている上、教育費(小学校)は自己負担とされ貧困にあえぐ農民には到底、承服しがたいものであった。
 この時期、農民層はもとより旧士族の困窮も極点を極め、各地で反乱が相次いだ。折りしも政府高官の綱紀の乱れは甚だしく、維新後の社会制度の整備は遅々としていた。西郷隆盛が「政府へ尋問の筋あり」と反旗を掲げ、西南の役(明治10年)へと発展する。
 農民は新政に対する不満があっても選挙権等もなく、一揆によってしか意見表明できない悲しさが同居していた。特に耕作規模が小さく小作農が多い西日本の農村集落おいては、随所で一揆の発生を見るに至ったのである。一揆後の詮議や処断もまた、およそ藩政期のそれを抜け出るものではなかったことは既述の通りである。
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 事件後、一揆はなぜか封印されたのだろうか。京都府から国に報告された記録が内閣文庫に保管されていて、昭和6年に「明治初年農民騒擾録」として公刊された。この明治初年農民騒擾録を下に、「綾部町史」(昭和33年発行)の一節に、明六一揆が記された。しかし、明六一揆の筆者は官の記録に疑念を抱いたのか別途、民間資料(「何鹿教育」所収)を拾い集め、官製版明六一揆に民間資料を併記して一揆の記録をまとめている。
綾部市街をのぞむ(手前は由良川に架かる位田橋)
 綾部町史から明六一揆の記録を読むと、官製版では、@7月22日山家方面で騒擾が生じ、同24日説諭により解散、A7月24日今度は八田方面で騒擾が生じ、同26日説諭により解散、B7月26日今度は延村で騒擾が生じ、同27日説諭により解散、C7月27日今度は吉美方面で騒擾が生じ、同28日説諭により解散と記され、各方面の騒擾の訴願が記されている。各方面でほぼ同じような訴願をたて、日を違えて順番に騒擾が起き、官の説得により一揆勢が帰村すると言う模範的な事件収拾のストーリーはいかにも官製版を思わせ不自然である。文書の整理が行なわれた疑念を払拭できない。
 官製版は一揆勢が由良川を渡り要所に陣取った等々の記述はなく、読むほどに不自然さだけが目立ってしまう。民間資料の方がよほど真実味があり、町史の筆者はすでに公表されていた民間資料「何鹿教育」の記事を併記せざるを得なかったのだろう。執筆者の良心が感じられる。
 近年、国や地方公共団体の保存文書が国民の開示請求等によって公開される機会が多くなった。しかし官吏もまた人間、作為もあれば誤りも無きにしも非ずである。私たちは、その記録を検証する努力を惜しむべきではない。めいめいの町なのだから。-平成25年2月-