京都
丹波の民家(懸魚)
民家のたたずまい(京都府道1号線)
 丹波に旅すると、旅人はまずその民家の佇まいの美しさにこころを打たれるだろう。山陰線の車窓から眺めると、深い峡谷の段丘上に民家がへばりつき、ささやかな道が上り下りして集落を美しく浮かび上がらせる。
 街道もまた定規で測ったような直線のそれではない。緩やかにくねくねとカーブし、右に左に沿道の合掌づくりの妻が美しくうつろっていく。丹波から若狭に通づる府道1号線の沿道景観の美しさは筆舌に尽くしがたいものがある。
 丹波の人々は家屋の改築時に草葺屋根を壊さず、屋根にトタンを被せ合掌づくりの大屋根を維持している。府道1号線沿いの上林地区では数年前、数軒の草葺屋根が残っていたかと思うが過日、訪れるとすべて消滅。しかし、シンボリックな家屋(屋根)を失っても、街道の景観はやっぱり美しい。
 丹波の家屋の美しさは妻飾りである懸魚(げぎょ)にあるのではないかと思ってもみる。懸魚は神社の社殿や寺院の方丈など
かぶら懸魚(鰭、六様あり)
三花懸魚(六様あり)
かぶら懸魚(猪目、六様あり)
の妻に附置される彫刻物。丹波では懸魚を民家の妻に用いるのである。草葺住宅を改築し屋根をトタンに葺き替えても懸魚は引き継がれ、入母屋破風の拝みの中央に吊るしてある。
 懸魚の発祥は飛鳥時代とされるが、破風板よりさらに朽ちやすい位置に吊るされるから、全国的には社寺の古いものでも鎌倉時代以降のものしか残っていない。
 丹波の民家における懸魚の使用例をみると、府道1号線沿いの上林地区では「かぶら懸魚」が主流をなし、まれに「三花懸魚」がみうけられる。綾部市街の近郊農村ではこのほか切懸魚や梅鉢懸魚を吊るす家屋もある。古い時代のものとされる猪目(いのめ。ハート型の空洞を施した彫刻)を配する懸魚は上林の民家でも数えるくらいしかなく少ない。かぶら懸魚や三花懸魚はいずれも室町時代以降にあらわれる。尾藤八幡神社(福知山市大江町)に猪目懸魚がある。‘たけのこさん’で聞こえる志賀郷(綾部市)の篠田神社本殿(室町時代)のかぶら懸魚は改修時に更新された可能性はあるが、保存状態がよく美しいものである。時代は降るが大本教(綾部市本宮町)の弥勒殿や長生殿に典型的な梅鉢懸魚など懸けられている。
 また、上林地区の例では懸魚の上部の広いところに六様の彫刻を置いている。さらに懸魚の両側に鰭(ひれ)を置いたものがまれにある。鰭は鎌倉時代末期にあらわれる彫刻で峰定寺(京都市左京区花背原地町)のものが最も古いとされる。
 懸魚の下に煙出しの細工がなされるが、井桁に組むのが一般的である。今では薪を焚くこともなくなり、抽象的な文様を置いてはいるが煙り出しの用をなさず、家紋を置くなど形式だけ整えているものも散見される。
 民家に懸魚を置く例は丹波以外にも例はあるが少ないように思う。由良川上流の京北・美山においても懸魚を置く民家は少なくない。美山もまた由良川文化に育まれたところ。これもまた養蚕や綿花栽培で潤った由良川流域の農家のささやかな贅沢であったのかもしれない。 −平成26年1月−
参照 : ハート型のうちわの形
懸魚の下がる美山の冬の風景
民家のたたずまい(綾部市古屋)

綾部の町屋造り
 民家が当地の産業や開発の余波によって次第にその姿が遷移することは致し方ない。しかし、そこを旅したことのある者にとっては、様変わりした街通りの狭間に昔日の町屋を見るとわけもなく、懐かしさとさみしさが同居するのは加齢のせいだろう。
 綾部市は戦前、蚕都として栄え、引揚港・舞鶴の乗換駅或いは宗教都市(大本教)としてきこえた北近畿の雄たる都市であった。しかし累次わたる大本教弾圧事件や戦後、ナイロンの発明等によって糸偏産業に陰りが見えはじめると、次第にその地位を福知山市に譲って現在に至っているようである。
 大本通りを歩くと、薬局など柱や壁を漆喰で塗り固め窓などを黒く縁取りをした特有の町屋が少なくなったとはいえなお数軒、昔日の面影を通りに映して美しい。土蔵造りの住宅は各地に残っているが、綾部の町屋はうだつを揚げ、白と黒とのコントラストも美しく特有の光を放っている。府道1号線(上林)や同494号線(向田→七百石)沿線の懸魚の掛った合掌造りの農家住宅のある風景は丹波の田園の絶唱、大本通りの漆喰住宅は丹波の町屋の絶唱であろう。−平成26年2月−