京都
丹波・浦島神社のオヌー伝説-福知山市戸田-
丹波・浦島神社
オヌーさま
 福知山市の郊外に戸田という地区(以下、「戸田村」という。)がある。集落は由良川に寄り添うようにしてあり、浦島神社(写真左)が鎮座する。この社は丹後の浦島神社(宇良神社。式内社)を応仁年間(1467~1468)に勧請したもの。旱害の守り神として近在の農家に崇拝されている。
 丹後の浦島神社は、浦島太郎が海のかなたの竜宮城に行き、乙姫様との逢瀬や竜宮城から戻った浦島太郎が乙姫様からもらった玉手箱を開けるとたちまち翁に変身してしまう浦島太郎伝説を伝える社。物語は雄略記(日本書紀)や丹後風土記に記され、文献に裏打ちされたわが国最古の社。万葉集に長歌と短歌がそれぞれ1首採録されている。
 丹波の神社の創建は概して古く、丹波・戸田村の浦島神社はことさら古い社ではないが、神社そばの「ヌー」(沼)が竜宮城に通じ、ヌーの水に触ると乙姫様が大雨を降らせてくださると言い伝えられ、浦島神社のおヌーさまは雨乞いの神として崇拝されてきた。近年では水利の神様として、また浦島‐乙姫の逢瀬が転じて縁結びの神様として知られるようになった。ただし、乙姫様との約束を違え玉手箱を開けるとたちまち白髪の老人に変身するというから、乙姫様とは真剣に付き合わないといけないと近在の人。
 春秋のころ、このちょっと変わった丹波の浦島神社は遠来の参拝者で賑っている。

おヌーさまのこと

戸田村は中世の雀部庄(ささいべしょう)の村落。領家は山城(今の京都市)の松尾神社。雀部庄はしばしば地頭の横領を受け、かつ戸田村は由良川左岸の広い氾濫原にあって山がなく川の流路がしばしば変わり洪水の危険がいつも同居する住みにくい村であった。土地はこの地方の方言で「シル田」よばれる湿地をなし、乾田化された今もかつての自然堤防や低湿地の自然林がその痕跡をとどめている。加えて、戸田村は水利が悪く日照りが続くとしばしば旱害に襲われるところだった。
 雀部庄内には領家の松尾神社が勧請されており、旱害時には同社に願をかけるか或いは竜神を祀るか、さもなければ村御堂で数珠繰りを行うなど雨乞いの方法はいくつかあったかと思われる。そうすると、この戸田村になぜ隣国の丹後からわざわざ浦島神社が勧請されたのだろうか。
 丹波・戸田村の浦島神社の社伝は、「由良川対岸の川北村に住む福寿院という山伏の夢枕に浦島太郎が現れ件のお告げがあった。山伏は戸田村にやって来て、ヌーの沼底から白岩が竜宮城に通じていて、ヌーの水に触ると乙姫様が雨を降らせて下さると話をした。早速、村人がヌーの水に触ると果たして福寿院の言うとおり大雨が降った。村人は沼のそばに浦島神社を建て、旱害に襲われるとおヌーさまに祈願した。」と伝えている。このようにして、おヌーさまは旱ばつの神池として村人の尊崇を受け、今日まで大切に守られてきたということだ。
 数年前、由良川護岸の築堤工事が行われることになり堤防の内側にあったおヌーさまが潰されそうになったとき、住民はこぞっておオヌーさまを守り抜き、玉垣を回らされたおヌーさまはそのままの姿で浦島神社のそばに遷座し、今に至っている。
 旱害に襲われても雨乞いをすることしかできなかった時代に、人々の思いは乙姫様までかつぎ出さなければならなかった。念仏踊りや裸踊り、僧侶の修法、数珠繰り等々、各地でさまざまの雨乞いが行われてきた。丹波・戸田村のそれは、浦島太郎と乙姫様を登場させ沼池という戸田村の地域性を織りみ、白岩で竜宮城の大池とつなぐという特異な雨乞いであった。着想が壮大かつ夢がある。奈良のお水取り伝説にも似たところがあり、大変興味深い。
 浦島神社は今、訪れる旅人を温かく迎え利水の大切さを教えているようにみえる。 


 丹波・戸田村のヌー伝説は、中世にこの地方で盛んに行われた丹波修験道の影響下で編まれた説話であろう。福寿院の夢枕は、川北村の烏ヶ岳信仰に通づるものがある。
 福知山盆地を貫流する由良川は綾部市里町辺りからその北側の山地の山裾に沿って流れている。下流の小貝(綾部市)の山塊にぶつかった水流は川北の山裾まで直流し、川の南岸(左岸)に広大な氾濫原を形成し、暴れ川はしばしば戸田村などを襲い、流路も変えた。このため戸田村など由良川南岸の村落は湿田に悩まされ続け、水利が悪く、用排水路の設置が古来、この地方の重要な農政問題であり続けた。
 藩政期には、戸田村の上流10キロほどの綾部市並松-味方間にかんがい施設(綾部堰堤)ができ、福知山の天田堰堤と相俟って由良川南岸(左岸)の農地に用水を供給し、さらに両かんがい施設を統合する事業が行われるなど、この地方の農業用水の確保は徐々に改善されてきた。
 しかし、明治、昭和の時代に至っても由良川の洪水は収まらず、護岸の強化とともに用排水施設等の整備が喫緊の課題とされた。戦後まもなく土地改良区により綾部堰堤の頭首工及び用水路の改良工事(昭和25~26両年度)が行われ、並松~井倉(綾部市)間の約2キロは近代的な用排水施設が整い、さらなる事業の推進が熱望されたところ、昭和28年、綾部・福知山を襲った大洪水により各所で堤防が決壊。綾部堰堤は破壊され、水路はずたずた。その惨状は言語を絶するものだった。流域の水田は壊滅し、古老はゼロからのスタートだったという。

綾部堰堤と頭首工
 綾部福知山用排水完工
 記念塔

両市の土地改良区の動きは俊敏だった。流域の護岸のコンクリート化が進められ水害防御率は一挙に上がり、昭和29年度から土地改良区による頭首工等綾部堰堤や用排水施設の整備が進められ、13年の歳月をかけ昭和40年に並松(綾部市)-前田(福知山市)間に恒久的な用排水施設が完成した。水路の総延長約17キロ、流域の水田面積232ヘクタールに及ぶ。
 昭和47年、綾部堰堤の頭首工にほど近い堤防脇に完工記念塔が建てられた。塔の先端で相輪が誇らしげに輝いている。
 一筋の水路はこの地方の田畑灌漑(乾田化)の生命線として現在に至っている。以来、流域の水害は減少し、旱害はほとんどなくなった。
 歳月は時に河川環境を変えてしまう。綾部堰堤から上流の綾部大橋にいたる由良川左岸(南側)約100メートルほどの堤外地は流木や土砂で埋まり、草木が生い茂る川となった。荒れた水辺を見かねた一人のボランティアが立ち上がった。「川が汚いのはたえられない。」というこの人は、人知れず仕事帰りや休日に実に2年の歳月をかけ清掃作業を行い、2年前、岸辺に美しい水辺環境がよみがえった。今も、この人は時間の許す限り岸辺の清掃に余念がない。
 私は思う。人は、人前で人の手柄を自分の手柄のように吹聴し、出来もしないことを熱心に語る人より、人の見えないところで空き缶や草木を除き、清掃に励む無私の善意が人の世の潤滑油となり、美しい日本をつくっているのだと。平成24年12月-

綾部大橋を望む(手前は綾部堰堤の頭首工)