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佐賀 |
長崎街道・塩田宿−塩田町− |
塩田宿 |
有明海にそそぐ塩田川の上流に塩田宿がある。塩田宿は、小倉から長崎に通ずる長崎街道(延長228キロメートル)25宿のうちの一つだった。向学の士や幕末の志士が西洋の潮流を知る国内唯一の開港であった長崎に向かう道だった。ケンペルなど紅毛人が長崎から江戸に西洋の文化を東国に運びまた、日本の諸相を諸国に伝える文化の道だった。のびやかな街道に重厚な土蔵造りの商家の白壁が輝いている。
街道とともに塩田川の水運は、塩田宿の繁栄を支えるもう一つの幹道だった。島原から塩田津に荷揚げされた陶石や肥料、塩などの物資は、当地やその周辺の陶磁器や農産物の生産振興を支えたのである。 今日、塩田川の水量はそれほど多くはないが、有明海の数メートルにも達する海水の干満差は、舟運のみならず、水田にアオ(淡水)を提供し、流域の豊かな穀倉地帯を支える天与の水利を成していたのである。
季節の節目節目に行なわれたであろう丹生神社や吉浦神社の野舞台、六地蔵を彫った庚申塔は、歌舞伎や庚申講を楽しんでいた塩田の人々の豊かな日常を今日に伝えるものであろう。吉浦神社や八天神社の参道に架かる石橋や常在寺の仁王像、蓮乗院の石仏など夥しい石造物は、肥前一円の石文化にも影響を与え続けてきたことであろう。
庚申信仰を示す六地蔵塔は特異である。北部九州においては、庚申尊天等と刻んだ文字塔が主流であるが、肥前では塩田などで六地蔵塔を庚申塔として用いる場合があり、しばしば道路端などでみかけることがある。もちろん肥前においては、六地蔵塔を逆修(生前供養)やその他の祈願に用いる風もあり(妙香の例(厳木町))、私はこちらの方が庚申塔として用いる場合より先行していたのではないかと思う。南上公民館敷地内の六地蔵塔は造立が元亀4年(1573年)と古く、もともと逆修の趣旨から造られた可能性も捨てきれない。いずれにしても、肥前の豊かな石造文化は、塩田石工の貢献によるところも大きかったのであろう。−平成18年2月− |
塩田川 |
塩田川(塩田津) |
野舞台(丹生神社) |
野舞台(吉浦神社) |
塩田の田園 |
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