九州絶佳選
佐賀
田代宿残照−鳥栖市田代町−
 西清寺の大銀杏が晩秋の風に舞い境内を黄金色に染めるころ、街道の坂道沿いの八坂神社の境内では、クスの大木が北風に身を委ねている。ここ鳥栖市田代町は、藩政期の長崎街道の宿場町として栄えたところ。諸国に通じる街道は薬業にも地の利があり、田代の配置薬は越中富山の売薬さんとも大いに張り合ったのである。
 田代宿を往き、神社仏閣や商家の軒先或いは民家の門や街道端の恵比須神に吹く風にも何かしら古色を感じるのも、この町がたどった特異な歴史を感じるからであろう。
 田代は、藩政期には対馬藩宗氏の所領基肄養父きやぶ領のいわば県庁所在地であり所領の一角にあった宿場町だった。対馬藩は、現在の鳥栖市の東半分と基山町に飛地を領有していたのである。
 石高は一万二千余石。現在の田代小学校の辺りに代官所が置かれていた。日本国は、平野がなく米が獲れない対馬に対して、ヤマト王権いや邪馬台国の時代から近世に至るまで、特別の配慮をみせたことがあったであろうか。ヤマト王権が対馬に送った米は防人の米であって島民に与えるものではなかった。対馬は古来、魏志倭人伝がしるすように漁撈と交易を興して朝鮮ないし本土から食糧を得ていた。その状況は近世に至るまで変わることはなかったであろう。幕府は藩政期になると朝鮮通信使関係業務を含む外交業務を捌き、釜山に倭館を置き対朝鮮貿易にあたる対馬を10万石格の大名として扱った。
 対馬藩は基肄養父領においても善政をひいていたようである。幕末にイギリス・フランスが対馬の海軍基地化を窺い、続いてロシアが1861年(文久元年)、軍艦ポサドニック号を芋崎に接岸させ、土地の租借等を提案し、藩主宗氏に会談を求める事件があった。世にいう対馬事件である。無論、宗氏はこれを拒否するのであるが、ロシアは、イギリスの東インドシナ艦隊の軍艦二隻が対馬に来航し、引き上げるまで浅海湾の一角を半年間も占拠したのである。波止場を築き、宿舎や家畜小屋を建て、ロシア旗を立てる有様だった。その間、石や木材を投げつけロシア兵に激しく抵抗したのは島民であった。田代からも郷士など約300名が対馬に渡り抵抗を続けた。この事件によって島民1名が死亡し捕虜となる者もあった。対馬はかつて刀伊の入寇や元寇(写真左。福岡市東公園の銅造日蓮聖人立像の台座レリーフ(洋画家・矢田一嘯原画))によって屈辱を受けたが、ポサドニック号事件のときも長崎奉行など幕府側の対応は鈍く、大いに適切を欠き犠牲者をだす有事に至ったのである。
 田代宿の街道を往くと、代官所跡や代官所通用門或いは神社仏閣や追分石などの古跡にふく北風が対馬藩基肄養父領のよすがをいまに伝えている。−平成17年12月−

西清寺のイチョウ

長崎街道

八坂神社

恵比須神(長崎街道)