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カルスト地形をなす四国山地の岩陰や洞で上黒岩遺跡(九万高原の美川村)、中津川洞遺跡(西予市城川)などの縄文遺跡が次々に発見された。瀬戸内海を挟んで帝釈峡遺跡など広島でも縄文遺跡の発見が相次いでいる。今後、中国、四国地方における遺跡調査の進展によって、東高西低といわれる縄文遺跡の分布に変化が生じることもあるだろう。
中津川洞遺跡(写真。左上は遺跡所在地の遠望)は、肱川の支流黒瀬川の細流が源流地帯に迫る河岸段丘上の洞窟乃至岩陰の遺跡。それらの遺跡から縄文早期の人骨と工房ではないかと思われるほど夥しい石器(鏃)が発見された。
さらに石器は、大分県姫島産の黒曜石と讃岐の国分台に分布するサヌカイトが混在し、約八千年前といわれるこの遺跡は私たちに尽きない興味を提供している。南海産のイモガイやタカラガイの遺物などは縄文期の人々の交易圏の広さをしめすものだ。同村の坂本にある民俗資料館に出土遺物が展示されているので併せて見学されるとよい。−平成17年8月− |
大洲の街(大洲の街)―大洲市― |
芋鍋の煮ゆるや秋の音しずか <東洋城>
淋しさや昔の家の古き春 <東洋城> |
大洲の街は、俳人・松根東洋城が少年期の6年間を過ごしたところ。秋の芋鍋も家並もみな懐かしい。
大洲の人々は、初秋の風が吹く8月下旬ころから肱川河原で芋(サトイモ)を煮て秋を愛でる風流を忘れることはない。
如法寺河原から陸に上がると、おはなはん通り(写真左)や旧市街の街並みが肱川の南岸に建ち並び、木蝋を商う商家の倉庫や民家が軒を連ねている。
淡い春の陽を浴びた「昔の家」や、水面に初秋の風を感じながら味わう「芋煮」の風景は、東洋城の原風景として作歌活動を支えたに違いない。 旧市街の高台で「大洲城(写真上)」の白壁が輝いている。 城は、大洲藩主・加藤氏13代の居城。きょうはお城で茶会のようだ。観光客に混じって、和装の麗人が茶道具を下げ急坂を登ってゆく。-平成16年9月- |
吉田陣屋−宇和島市吉田町 |
石城を背にした吉田藩陣屋(写真左)を偲ばせる建物(図書館)が復元されて久しい。
宇和島藩主伊達秀宗の五男宗純が吉田三万石を分知され明暦3(1657)年、立間川と河内川が流入する沼地を開削し、陣屋や家中町、町人町を拓いた。
町外れに吉田藩主の墓所大乗寺がある。商店街の中にある安藤神社や海蔵寺などに藩政期のよすがが漂う。
安藤神社の祭神は、城主でもなく記紀神話の神々でもない。吉田藩のいっかいの中老安藤継明である。継明は寛政5(1793)年に勃発した百姓一揆に関わり、宗藩の八幡川原で切腹した人。事件は、約1万人におよぶ農民が紙の専売制度の改革を訴え宗藩宇和島藩に直訴したものだった。民情の理解者であった継明は八幡川原で農民の説得に当たったが叶わずその場で切腹。農民は動揺し、一揆は鎮まったという。なんともやるせない事件の50余年後、継明は神格をえて神社に祀られたのである。例年4月、安藤神社の春祭りがある。
吉田は南予の温州みかん栽培の発祥地である。導入時期ははっきりしない。幕末にその起原があるともいう。
吉田はまた、全国の農業法人(生産法人)の誕生地として知られている。農業の企業化は古くて新しい問題であるが、吉田の農民はその諸課題に果敢に挑戦したのである。いま、農業生産組織の法人化はかんきつ類にとどまらず農村の高齢化に伴う田畑の集約化や労働生産性の向上という日本農業の宿命のもとその旗頭となる日も近い。―平成15年8月―
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