帝釈峡の岩陰遺跡−神石郡神石高原町等− | ||
帝釈峡は峡谷美で名の通ったところである。天然の石橋・雄橋など帝釈峡の自然はゆたかである。中空のアーチは、石灰岩が溶けでてできたもの。カルスト地形の帝釈峡の自然はまた、人々の生活の場ともなってこの地方の文化の厚みを増してきた。比婆郡、甲奴郡に約20万平方キロメートルの準平原がひろがる。 心地よい生活空間は、旧石器時代から縄文、弥生に至る多くの遺跡を育んで、人々は生活の痕跡をしるしてきた。 カルスト地形は岩陰を造り出す。上部が突き出、下部が侵食を受け空間ができた岩陰の出口に柱を立て、小屋がけをして、狩猟採集から農耕へと次第に生活様式を変化させながら、人々は連綿として岩陰に住み続け、文化の火を絶やすことはなかった。 岩陰遺跡はまた、時代時代の生活空間を地下に封じ込めた。幾層にも重なる時代の模式を完全に保存していて、生活史の変遷を見事に再生させたのである。幾層にも重なる遺物の包含層は、旧石器時代から縄文、弥生へとそれぞれの時代をつなぐ接点をのこしていたのである。 縄文期の遺跡名越岩陰遺跡は、籾殻の付いた土器を埋蔵。陽内遺跡や高峰遺跡、大蔵遺跡等々は、縄文、弥生の土器が並存した時代があったことを立証する遺跡。寄倉岩陰遺跡(写真左下)は、縄文早期から晩期に至る数千年間に及ぶ生活址が順次、堆積した遺跡。 帝釈峡は、縄文、弥生遺跡の宝庫だ。東日本に偏在しがちとみられていた旧石器時代や縄文時代の遺跡が中国山地や四国山地のカルストで発見され、西日本においてもそれらの時代の文化が花開いていたことを示している。今後、また驚くような発見があるだろう。−平成18年6月− |
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