久賀の石風呂−周防大島町久賀−
久賀の石風呂 石風呂は九州の豊後(大分)地方に散見される。久賀の石風呂など周防大島の石風呂群は、瀬戸内海沿岸の石風呂とともに豊後の外縁部に波及したものか。
 久賀の石風呂は、幅5.4メートル、奥行4.6メートル、高さ2.5メートルもある。石風呂内部で松葉をたき、周囲が熱くなるのを待って、床に海草を敷き、濡れたムシロをかぶって入浴する。一種のサウナである。
 久賀の石風呂の築造者は俊乗坊重源と伝えられる。重源は傍らの薬師堂も併せて建立したと伝えられる。石風呂は薬効できこえ、昭和の始め頃まで使われていたという。
 重源は入唐三度聖人と称された人。治承4年(1180年)、内乱の戦火によって南都は廃塵に帰した。鎮護国家の宗教であったはずが、仏殿は焼け飢饉が発生するなど聖職者のみならず人々の苦痛は極点に達していた。そうした時期、重源は、勧進集団を組織して諸国に勧進聖を派遣して東大寺再興の寄付を募った。このころ西行も東国を勧進行脚している。文治2(1186)年、周防国の知行を得た重源は周防に下向する。東大寺再建の材木採取のため周防入りしたといわれ、東大寺再建にも大いに貢献したのである。建久6(1195)年、源頼朝の臨席を得て大仏殿の開眼供養が行なわれている。
 重源は周防大島辺りまで足を伸ばし石風呂を築造したのであろうか。久賀の石風呂にも激動期の日本がみえるようである。−平成18年5月−
 上関海峡の風景−上関町−
 上関かみのせき海峡は、室津半島の南端にある幅100メートルほどの海峡。室津の対岸は長島。上関大橋が架かる。狭い海峡に間断なく船舶が往来する。タンカーと離合する漁船が一艘。海中に舳先が潜ったかと思うほど激しい波の衝撃を受けて木の葉のように揺れている。
上関海峡 長島の上関は、防長の下関、中関(防府市)に次ぐ関で、防長の最も東に位置する海の関だった。海峡はに上関大橋が架かる。その少し西にささやかな船着場があり、全面は海岸道路。対面に天ぷら店。揚げたての天ぷら(一般的にはハンペン)をほおばり昼食。
 海峡は鳩子の海だ。本場の天ぷらの味もよし。「長年、海峡を眺めて暮らしていますが、白灯、赤灯(航路標識)があるので海難事故はまったくありません。海峡が一望できる裏山の展望台へ上るとよいでしょう。」と、店の女将から教えていただいた。
 長島は村上水軍が雄飛した島。制海権を握る重要な海峡である。展望台は歴史公園になっていて村上水軍の上関城の門などが再現されている。海景も申し分がない。上関大橋を通過するタンカーも商船、漁船もみな交通規則に従ってきれいな航跡をえがいている。
 上関は、藩政期には萩藩の御茶屋がおかれた海路の要所地。藩主の休憩、宿泊や、都合12回往来(上関には11回)した朝鮮通信使の饗応などが行われた。高台に県立熊毛高校上関分校があり、敷地の一角に御茶屋跡がある。近くに藩政期の旧上関番所の建物が移築保存されている。蒲刈下島の三之瀬の長雁木鞆の浦の対潮楼とともに数少ない海駅の遺産である。朝鮮通信使一行の総員は約500名、対馬藩や京都五山の随員や萩藩の警備に当たる者などを算入すると総員1000名を下らない者が上関に滞在した。もっとも、それほどの要員や船舶を上関港のみでは収容できず、対岸の室津や尾国湾に分散、停泊したことであろう。海岸通りから上関の街中に入ると、重厚な白壁造りの商家が並ぶ古い町並みが往時の上関の繁栄を街路に映している。−平成18年6月−