福島雁木(長雁木)−呉市下蒲刈町三之瀬−
福島雁木 呉市の南に、周囲16キロほどの下蒲刈島がある。数年前、対岸の川尻町との間に安芸灘大橋が架かり本土とつながった。
 島の三之瀬港は、はじめ福島正則が整備した港。江戸期には、浅野氏が幕命により本陣や御茶屋(接待所)などを整備し、船頭や水主が常駐し、番船が繋がれ、海駅となった。
 慶長7年(1602年)以来、約二百年余、三之瀬は朝鮮通信使、琉球使節、西国大名やオランダのカピタンの参府などの寄港地として栄えた。
 三之瀬港に当時の船着き場が残っている。長雁木といわれるもので、約56メートル、14段ある。3段は後世に継ぎ足されているが現役の船着場だ。むかしは朝鮮通信使に同道した対馬藩専用の雁木があった。
 いま対馬雁木は埋め立てによって消失し、現存する雁木も往時の半分ほどの長さである。総勢五百人にもなった朝鮮通信使は、対馬の府中(厳原)、壱岐の風元(勝本)、玄界灘の孤島・相島(藍島)を発ち瀬戸内海に入ると、波静かな海に大いに安堵したことであろう。
 朝鮮通信使は、もともと豊臣秀吉の朝鮮出兵によって連れ去られた同胞人の帰郷を求め来日した。そのうち、将軍の代替わりのときに来日するのが慣例になった。江戸期に11回の来訪記録がある。港の小波止の先端に綱とり石が雁木とともに残っている。港近くに、当時の本陣や御茶屋跡などがある。−平成18年5月−

朝鮮通信使と三之瀬
 朝鮮通信使の船団は、対馬の風本(勝本)、筑前の相島(藍島)、長門の下関(赤馬関)、周防の上の関に進み、次に安芸の下蒲刈島・三之瀬を目指して帆をかけた。朝鮮通信使は、12回の来日中11回、三之瀬に寄航している。
 朝鮮通信使一行は、正使以下約五百名。対馬藩士と対馬駐在の五山の禅僧など随行を加えると約七百名にもなった。さらに対馬藩の護衛が七、八百名ついていたから三之瀬の雁木を渡った者は総勢千四、五百名にもなったろう。雁木の上に掛出を設け、正使が宿泊する上の御茶屋まで延々廊下を設け、緋毛氈などが敷き詰められた。通信使の宿泊棟は十数棟にもおよんだという。饗応は贅を尽くし、百間ほどにもなる金屏風が立てられ、正使の朝の七五三の食事に50種類の料理と10種もの菓子がつけられた。饗応に当たった広島藩士は約千人。次の停泊地・備後の鞆まで六百余艘の船が伴走したという。通信使一行は、鞆を立つと備前の牛窓、播磨の室津、摂津の兵庫に港に寄港して大坂に上陸したのである。このようにして一行は、江戸まで旅を続けたのである。通信使は三之瀬の接待を最も高く評価したという。
 三之瀬に長雁木のほか、蒲刈島御番所跡、三之瀬御本陣跡、三之瀬朝鮮信使宿館跡や綱とり石が残っている。雁木に立ち往時を思うのもよいだろう。