三高山砲台(砲台山)−江田島市(西能美島)−
三高山砲台 周囲を山と諸島に囲まれた呉は、水深があり、紀伊水道、下関海峡、豊予海峡に抜ける海路の要衝にあり、広島湾という格好の演習海域を備える良港だった。
 その呉に、明治21年に海軍兵学校が東京から江田島に移された。翌 明治22年に呉鎮守府が開庁され、同時に鎮守府造船部(呉海軍工廠の母体)が開設された。呉は名実ともに帝国海軍の一大根拠地となる。 ここに軍都広島より少し遅れて軍港呉が誕生した。
 呉港の西方で呉港を抱くようにして浮ぶ能美島は、軍港呉の要害。西能美島の三高山(標高402b)に砲台が築かれたのは明治34年。28榴弾砲など8門を装備し、約20万平方メートルに及ぶ砲台敷地は、国内最大規模だった。砲台跡や地下壕などが残る。ロシアのバルチック艦隊の入港を阻止するため、築造されたものといわれるが、1弾を発することなく大正8年に廃止された。砲台跡(写真左)は今、砲台山森林公園施設として生まれかわっている。−平成18年7月−
 ミニ西国33番観音霊場−大竹市−
ミニ西国33番観音霊場 江戸時代は四国88カ所巡拝、西国33カ所観音霊場巡拝、秩父34観音、坂東33観音、24輩巡拝、六部廻国、伊勢詣など諸国詣が流行った時代。僧侶、修験者から一般庶民にいたるまで霊場巡りが浸透するようになる。諸国詣での盛行は、治安や庶民の生活が安定していた証でもあったろう。丹波(綾部市)、摂津(高槻市)あたりでは188霊場巡りが行われた供養塔が残っており、当時相当盛んに諸国に出かける者もいたようである。
 しかし、巡拝に出立すると結願までに長い月日と大きな経済負担を伴う。肉体的な不安がつきまとう人もいる。そのような事情から離島や寺院の裏山などにミニ巡拝地を設け、簡略に巡拝を行なう風が生まれた。小豆島の島四国などは典型的な例である。歩き遍路で1週間もあれば四国88箇所の巡拝を済ますことができる。お四国さんに2〜3ヶ月も要することを考えれば負担ははるかに軽い。
 大竹市の三倉岳の麓に安養山瑞照寺という禅寺がある。この寺の裏山に新西国33番霊場(写真)がある。西国33カ所観音霊場と同じ本尊が石仏に刻まれている。お堂はなく、野天の石仏を巡るミニ巡拝である。寺の境内に新西国33番霊場の苔むした石柱が立っていて、案内によれば、霊場の開場は天保4年(1832年)、観音信仰者が在所から1キロほど離れた小瀬川の上流から石(花崗岩)を持ち帰り、小方の松五郎という石工によって制作されたとある。霊場の開場年と石工の名がわかる点においてこの巡拝地は特異で貴重である。
 石仏は、自然石の大小さまざまの形状をそのまま活かし、半肉彫で千手観音、十一面観音菩薩、如意輪観音など巡拝寺の本尊が彫られている。みな微かなほほえみをたたえたよい顔である。小1時間で1巡できる。32番辺りから眺める三倉岳の山容は格別。民家の赤瓦の屋根と山塊、空のバランスのよいビューポイントである。−平成18年8月−