日本人の情感
 平家物語に描かれた敦盛の最期の場面は、日本人の情感をくすぐる悲劇として私たちの脳裏にいきている。
 熊谷直実が平家の大将を馬から引きずりおろし、首をはねようとして兜をとると16歳ほどの若武者であった。直実は若武者を助けてやろうとして名を尋ねる。若武者は横柄な態度で名を明かさず、「首を取って人に問へ」という。それでも直実は、息子小次郎がかすり傷ほどの怪我でも動転してしまったわが身のことを思い、若武者の両親が息子の死を知れば嘆き悲しむだろうと察する。しかし、見逃してもやがて若武者は殺されるだろうと思った直実は、若武者の冥福を祈るために出家すると約束して若武者の首を落とす。鎧を脱がせると錦織の袋に入った笛が見つかる。その日の朝、敵陣から響いていた笛の音であったかもしれない。若武者は平家の公達敦盛であった。
 敦盛の首をはねた直実は、優雅のたしなみなど考えられない東男。直実をして敦盛の殺害を意識したとき、直実は敦盛の父母の嘆きを思うのである。こうした死にまつわる感情の移転は、すでに憶良の熊凝を悼む歌にあらわれているのであり、憶良の教育者としての素養の高さを思わずにはいられない。
 こうした情感は、近世に至っても日本人の伝統的情感として失われることはなく、臨死にあって父母への思いやりとして、近松の「曽根崎心中」や「心中天の網島」などでもしばしば表現されるのである。
 「・・・我らが父様母様はまめで此の世の人なれば。いつ遭う事のあるべきぞ便りは此の春聞いたれども。逢うたは去年の初秋の初が心中取沙汰の。明日は在所へ聞えなば如何ばかりか嘆きをかけん。親たちも兄弟へもこれから此の世の暇乞。せめて心が通じなば夢にも見えてくれよかし。懐しの母様や名残惜しの父様やと。・・・」   <曽根崎心中>
曽根崎心中 遊女お初がしゃくり上げ、しゃくり上げすると、手代徳兵衛もわっと叫びいる情景描写は、曽根崎心中のクライマックス。大近松の世話浄瑠璃の第一作で、以降、近松が時代浄瑠璃を中心とした浄瑠璃界に一石を投じ、世話浄瑠璃を確立することになった作品である。歌舞伎より二十数年遅れての上演であったが、いまでも人気の世話物だ。・・・(心中したことが)明日は在所へ聞えなば如何ばかりか嘆きをかけん、と死に行く我が身を差置いて、父母の嘆きを案ずるのである。 
 ⇒ 安芸国で不慮の死をとげた熊凝の歌(山上憶良)