高瀬通し−倉敷市玉島−
高瀬通し
高瀬舟
玉島市街
 高梁川の上流に船穂町がある。高梁川が貫流し、堤防に沿って用水路(西岸用水)が敷設されている。用水路は藩政期に、松山藩主水谷公が開拓した玉島、阿賀崎新田の灌漑と水運に供するため完成したもの。高瀬通しと呼ばれ、その遺址が残る(写真左)。
 高瀬通しは、船穂町水江の堅盤谷から糸崎七島を経て終点の玉島舟たまりまでの約9キロの運河であった。運河の幅は3.7メートルから8.5メートルの閘門式。運河の仕組みは、堅盤谷の下流に閘門を二箇所(一の閘門、二の閘門)設け、下りに、一の閘門を開いて水をいれ、水深が2〜3メートルになると、二の閘門を開いて下流へと高瀬舟は下ってゆくのである。上りは、曳き子によって舟は曳きあげられた。
 下り舟によって米、大豆、煙草、綿、吹屋のベンガラなどの物資が玉島まで運ばれた。もどり舟は北海道産鰊粕、干鰯、昆布などの物資を運んだ。高瀬通しは、パナマ運河に先立つこと250年前の壮挙だった。延宝元(1673)年の建設。富山市内の富岩運河に閘門式運河が現存するので、見学されるとよいだろう。
 高瀬舟の終点の玉島(港)は、室津(兵庫県室津港)、赤間(山口県下関港)とともに北前船の寄港地として名のきこえたところ。最盛期には四十数店の大店が軒を連ねたという。
 近くに良寛が修行の寺・円通寺がある。港町は通船によって国内外の文物がにいち早く入るところ。宋版一切経の渡来を待って今津の誓願寺で実に十数年間を過ごした栄西のように、良寛もまた漢籍などの文物が帰着しやすい玉島を修行地としたのかもしれない。−平成19年2月−