円通寺(円通寺と良寛)−倉敷市玉島柏島−
 草葺の本堂や良寛堂、自然石の大岩を組んだ庭園・・・補陀山円通寺には余分なものは何もない。みな手入れが行き届いていて美しい。眼下に瀬戸内海の島々が指呼の間にある。
 円通寺は、元禄11(1698)年開山の禅寺。国仙、即中など幾多の高僧を輩出した寺。
 書や漢詩、和歌のみならず欲もなく出世も念頭になく清貧に徹した生き様などで知られる良寛もこの寺で多感な青年期を過ごしたひとりだ。良寛は、越後の出雲崎の人。
 安永8(1779)年、円通寺の国仙和尚が越後に旅したおり、良寛は若干22歳の青年だった。良寛は国仙和尚の徳を慕って円通寺に入り、約20年間、修行を積み、国仙和尚から印可の偈頌げじゅ(写真右上。原文は漢文)を得ている。青年期の良寛の性分や知るよしもないが国仙は偈で良(寛)やと呼びかけ、道うたた(良)寛しと諭しているので、良寛の実像は大変生真面目で融通の利かないところもあったのだろうか。師は良寛の名のとおりに生きよと教えているように思う。鉢の子の歌(下)などよむと、すっかり棘のぬけた良寛さんがいる。書を書き歌を詠み、名利を追わず托鉢をして、童らと遊び至る処壁間午睡閑なりの生涯に徹した良寛さんは、「嚢中三升の米 炉辺に一束の薪 何ぞ知らん名利の塵」(下)と言い放つのである。

   鉢の子をわが忘れども取る人はなし
   取る人はなし鉢の子のあわれ <鉢の子>

   生涯身を立つるにものうく 騰々として天真に任す
   嚢中三升の米 炉辺に一束の薪 誰か問わん迷悟の跡 
   何ぞ知らん名利の塵 夜雨 草庵の裏 双脚等間に伸ぶ
                     <三升の米 _ 五言律詩>

 円通寺の眼下は玉島港。江戸時代には北前船や千石船(弁財船)が往来し、北海道産鰊やほしか、備中綿の取引で備中の玄関港として栄えたところだ。盛時には、旧新町問屋街に43軒もの商家が軒を連ねたという。街路にナマコ壁の商家が昔日の面影を偲ばせている。−平成19年1月−