たたらの風景−庄原市比和町森脇−
 比婆山連峰は、千メートル級の山々が連なり、県下で唯一、縦走を楽しむことができる山岳である。竜王山麓の熊野神社辺りから入山して縦走する人が多いという。
 比婆郡の名は、市町村合併によって消え、比婆山・御陵、JRの駅名等にその名をとどめるばかりである。
 比婆山連峰の吾妻山の山麓に、大池、瓢箪池、長池などの池がある。これらの池は、藩政期に比婆郡内で盛んに行なわれた「たたら製鉄」の名残の池である。たたら製鉄は、この地方一帯に分布するぼろぼろに風化した花崗岩(マサ土)を砕き水をまぜ、比重の重い砂鉄を採取し、薪炭を使って精錬する。これらの池は、大量の水を要する鉄穴流しに水を引く元池として使用された。
 ‘鉄山師三千人’の元締めは古家眞長者と呼ばれた名越家だった。比和町森脇に広大な石垣に囲まれた屋敷跡(写真上)が残っている。「砂鉄掬うて タタラで金の 山を築い夢の跡・・・」と新比和音頭で唄われたタタラ製鉄の歴史があるところ。
 魏志(東夷伝弁辰の条)や後漢書(東夷伝辰韓の条)に朝鮮半島で鉄を産し、倭(日本)などがそれを求めたり、交易の媒体(貨幣)であった記述がみえる。日本の製鉄は、朝鮮半島の製鉄法が北部九州に上陸し、列島を東進したと考えられ、その始期は5、6世紀ころといわれる。10世紀初頭に完成した延喜式によれば筑前、伯耆、備後、備中、美作等が鉄の産地となっており、中国地方は鉄の主産地であったことがわかる。八岐大蛇にかかるアメノムラクモの剣伝説なども中国山地脊梁部で鉄を産した事実を示唆するものであろう。中国山地は砂鉄を含む良質のマサ土に覆われ、精錬の熱源となる木炭を産する広大な森林がある。砂鉄10トンの精錬に要する木炭の生産に約1.6ヘクタールの山林を要した。
 明治4(1871)年の廃藩置県によって、藩営の鉄山は広島県に引継がれたが、総数47ケ所中27ヶ所は比婆郡内の鉄山だった。中国地方は明治27(1894)年まで鉄の生産額は日本一だった。しかし、八幡製鉄所など洋式高炉法や輸入洋鉄に押されるようになり、明治37(1904)年、当時残っていた11ケ所の官営鉄山は廃止され、民間へ払い下げられた。鉄山は、おおかた昭和10年頃までには閉山した。
 備北、芸北、出雲、石見などの山中を歩くと随分多くのタタラ跡や製鉄所跡が潅木林に埋もれている。たたらに火が入ると三日三晩、10トン以上もの木炭が燃やし続け鉄は生産された。今日、中国山地の脊梁に高殿などタタラの墓標すら見出すことはできない。
 西城町に所在する「小鳥原砂鉄精錬場」は広島県下で最後まで操業を続けていたところ。跡地の地下に、高殿、元小屋、砂鉄再洗場などの遺構が残る。路傍のカナクソが往時の操業を物語る。−平成18年9月− 
 吾妻山−庄原市比和町−
吾妻山
 初秋の風を感じながら、野を行き、山を行く爽快さは格別のものがある。比婆山連峰のひとつ吾妻山(標高1239メートル)は、なだらかで美しい山容の山。山麓の大池、瓢箪池、長池はたたらのイメージが残るモニュメント。藩政期に日本の製鉄を支えた安芸の鉄山の歴史を伝える池である。吾妻山麓はまた、動植物の諸相も豊かである。
 比婆山連峰は神話の山。廻国の修験者らが往来したところ。麓の森脇(比和町)の道ばたなどに古ぼけた六部廻国塔がある。−平成18年9月−