備後の采女 |
うち日さす 宮に行く児を まがなしみ 留むれば苦し やれば すべなし <万葉集 巻4 532 大伴宿奈麿> |
養老3(719)年、大伴宿奈麿は、国守となって備後の国庁に赴任していた。宿奈麿は佐保大納言大伴卿(安麻呂)の子で大伴旅人の弟、大伴坂上郎女の夫に当たる人である。万葉集に歌を2首残しているが、いずれも采女を詠ったものである。もう1首は、‘難波潟 塩干のなごり 飽くまでに 人の見る児を 吾しともし’と詠う。
宿奈麿は、采女となり上京する乙女に万感のおもいを込める。采女は郡衙の大領(長官)の娘であろうか。5世紀末にはじまった采女の制は7世紀には成文化され、大化の改新の詔(645年)で容姿端麗な者を求め、郡衙の少領(次官)の娘が宮中に出仕することとされ、天皇に仕えた。国守は令制にしたがって采女の選考(選出)にかかわったのだろう。親に伴われ、旅立つ娘が別れの挨拶に宿奈麿を訪ねる。宿奈麿が万感の思いを胸に采女を見送る情景が手に取るように浮かぶ。・・・留むれば苦し やればすべなし・・・と葛藤をにじませる。采女を乗せた船が難波潟に着き生駒山を越えるともう大和だ。備後に戻ることも両親に会うことも許されない采女のつらい気持ちを、・・・人の見る児を 吾しともし・・・と同じ年頃の児になぞらえ采女の胸中を察して、自責の念にかられる宿奈麿がいる。
律令制下において備後に14郡が置かれた。歌題となった采女が旅立った郡は特定できないが、為政者はおりおりにこの詠歌のように心の機微を吐露し、施政に血を通わせることもあったのだろう。
地方支配のいわばツールとして発足した采女の制はまた、采女の人生を大きく狂わせることもあった。采女の死は万葉歌人をひどく惑わせた。その水死を悼んだ柿本人麻呂の歌がよく知られている。
宿奈麿の歌に私たちは采女を送り出す国守の悲痛を感じとることができるが、人麿の歌はその末路を激白したものだ。吉野の嶺に漂う霧に或いは吉野川の流れになづさう黒髪に出雲の采女の死を思うのである。人麿の采女に寄せる鎮魂の激情を思わずにはいられない。−平成18年7月− |
柿本人麿詠歌
山の際ゆ 出雲の児らは 霧なれや 吉野の山の 嶺に たなびく (万葉集 巻3 429)
八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ (万葉集 巻3 430)
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