石州街道(府中のあたり)−府中市府中町−
府中の旅館 府中市は備後国の国衙が置かれたところ。遺構の所在地に諸説あるところは、安芸国の府中町と同じ。
 芦田川の盆地にひらけた府中は、福山、尾道の背後にあって、国衙の立地によいところだったのだろう。 市街地に石州街道がとおり、街道沿いに「お宿 恋しき」の行灯のかかった旅館がある。旅館は切妻造り、木造三階建て。通りに面して二、三階部分に欄干が付き、二階部分にうだつが上がる幕末期の建物。九州の津屋崎や唐津に木造三階建ての旅館や飲食店が存在するが、大変珍しくなった。井伏鱒二や吉川英治など文人、墨客が泊まった宿も現在は廃業とのことである。 
 府中町の銀天街近くに、金比羅神社がある。境内にところ狭しと据えられた日本一の石灯籠は、総高9メートルもあり、四方に張出した笠石は壮観さもある。近郷20ヶ村から人夫2万人余の寄進と浄財により、8ヵ年を要して天保12(1841)年に完成したもの。街道をゆく旅人も足を止めこの稀有な灯籠を眺めたことであろう。境内に灯籠造立の顕彰碑がある。−平成18年7月−
備後の采女
 うち日さす 宮に行く児を まがなしみ 留むれば苦し やれば
 すべなし   <万葉集 巻4 532 大伴宿奈麿>
備後の采女 養老3(719)年、大伴宿奈麿は、国守となって備後の国庁に赴任していた。宿奈麿は佐保大納言大伴卿(安麻呂)の子で大伴旅人の弟、大伴坂上郎女の夫に当たる人である。万葉集に2首歌を残しているが、いずれも采女を詠ったものである。もう1首は、‘難波潟 塩干のなごり 飽くまでに 人の見る児を 吾しともし’と詠う。
 宿奈麿は、采女となり上京する乙女に万感のおもいを込める。采女は郡衙の大領(長官)の娘であろうか。5世紀末にはじまった采女の制は7世紀には成文化され、大化の改新の詔(645年)で容姿端麗な者を求め、郡衙の少領(次官)の娘が宮中に出仕することとされ、天皇に仕えた。国守は令制にしたがって采女の選考(選出)にかかわったのだろう。親に伴われ、旅立つ娘が別れの挨拶に宿奈麿を訪ねる。宿奈麿が万感の思いを胸に采女を見送る情景が手に取るように浮かぶ。・・・留むれば苦し やればすべなし・・・と葛藤をにじませる。采女を乗せた船が難波潟に着き生駒山を越えるともう大和だ。備後に戻ることも両親に会うことも許されない采女のつらい気持ちを、・・・人の見る児を 吾しともし・・・と同じ年頃の児になぞらえ采女の胸中を察して、自責の念にかられる宿奈麿がいる。
 律令制下において備後に14郡が置かれた。歌題となった采女が旅立った郡は特定できないが、為政者はおりおりにこの詠歌のように心の機微を吐露し、施政に血を通わせることもあったのだろう。
 地方支配のいわばツールとして発足した采女の制はまた、采女の人生を大きく狂わせることもあった。采女の死は万葉歌人をひどく惑わせた。その水死を悼んだ柿本人麻呂の歌がよく知られている。
 宿奈麿の歌に私たちは采女を送り出す国守の悲痛を感じとることができるが、人麿の歌はその末路を激白したものだ。吉野の嶺に漂う霧に或いは吉野川の流れになづさう黒髪に出雲の采女の死を思うのである。人麿の采女に寄せる鎮魂の激情を思わずにはいられない。−平成18年7月−
柿本人麿詠歌
 山のゆ 出雲の児らは 霧なれや 吉野の山の 嶺に  たな
 びく                    (万葉集 巻3 429)  
 八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ
                       (万葉集 巻3 430)