采女−奈良市− |
八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ <万葉集 柿本人麿>
わぎもこが寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞかなしき <大和物語 柿本人麿>
采女の袖吹きかえす明日香風京を遠みいたづらに吹く <万葉集 志貴皇子> |
万葉集に采女とみられる女性の死を悼んだ人麿の歌が2首ある。采女の死は歌の注から溺死であることがわかる。標記の「八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ」の歌はその采女の死体が発見されたときの歌。なんとも痛ましい。采女は天皇の吉野行幸に従っていたのであろう。わけあって吉野川に身を投げ、その黒髪が漂っている。何とも怪奇的な表現も、なぜか哀傷が勝っていて不気味な感じがしない。人麿の作詞の技量ゆえであろう。似たような情景の歌が大和物語にある。こちらの方は天皇の寵愛を失い悲観して猿沢の池に身を投げた采女の髪が池の玉藻にみえるのはなんとも悲しい、というわけだ。
毎年9月、猿沢の池をメイン会場とした「采女祭」(写真下)が催されているこの日、池の西北畔にある采女神社(写真下)に参詣者が絶えることはない。
明日香から藤原宮遷都は僅かな距離であるが、志貴皇子は旧都・明日香への郷愁を絶ち得ず、采女の袖に吹く風にも明日香への想いを滲ませる。そのころの采女は人々の負の感情を象徴する存在であったようである。
もともと采女は、ヤマト王権によって征服された地方首長である国造、郡司クラスの姉妹や娘が服属の証として貢進された女性とする説がある。
采女は天皇の寵愛をうけることはあっても生涯、単身を貫いた女官であって、姦通する者は厳しく罰せられた記事が雄略記などに見える。国造らの姉妹は祭祀権を司る存在であったから、その者の中央への吸収という宗教的、政治的な意味合いが、発足の当初にはあったのだろう。令によれば、先ず姉妹、次に娘を貢進させ、容姿端麗な者を差し出せと定められている。後年、神祇制度の整備によって、しだいに采女の宗教的側面が失われ、郡毎に1名が徴用されるようになり、采女は天皇の膳部を担う女官へと変化していった。−平成20年9月− |
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