うだつの風景(玖波)−大竹市玖波1丁目等−
 玖波は、西国街道(山陽道)の宿場町として栄えた町である。幕末に戦火に遭い、町並みは消亡したが復興された。旧街道沿いに切り妻、桟瓦葺き、二階建ての町屋に袖うだつをあげる町屋が軒を連ねる。うだつの中ほどに家紋などを入れる風があるのは県下の古民家に共通の特長。
 通りに藩政期の高札場跡や角屋釣井と呼ばれた井戸などがある。玖波は、切り立った獄をなすビュートが織りなす美しい山並みのふもとに開けた町である。−平成18年6月−
 京橋辺りの風景−広島市中区・南区−
 九州探題に任命された今川貞世は、1370年(建徳年間)、京都から中国地方を通過して九州に向かうおり、「道ゆきぶり」(紀行文)をあらわした人。
 南北朝ころの広島について、貞世は、干潮時に砂浜があらわれるほどのしおひの浜であったことをしたためている。このころ広島は、太田川河口の海中にあったのである。
 太田川デルタの開発を進め、広島城下を築いたのは毛利輝元。毛利氏が萩に転じ、後に福島正則が入府。正則が追放されると浅野長晟が入城したが、城郭、城下町はほとんど変わっていない。輝元は、太田川の本・支流の7河川を天然の城濠とした。内濠は掘削したものの、中濠と外濠の一部は太田川の自然の流れを巧みに利用している。城下の7分流に橋が7つある。
 山陽道を陸上交通の幹線として、東から猿猴橋、京橋(写真) 、元安橋川、天満橋、福島橋、己斐橋の7架橋を整備したのである。福島橋は姿を消したが6架橋は今なおその名を残している。猿猴橋や京橋はとりわけ美しい橋だ。猿猴橋は大正15年、京橋は昭和2年に架けられた石造橋。都心の華。戦時中の金属の供出によって、欄干上にあったシャンデリア風の街路灯の装飾が消え、昭和20年8月、原爆の投下によって両橋は破損したが、いまなお現役の橋。京橋上流には、被災し復活したエノキの大木や柳が生きている。雁木も河岸も当時のまま。京橋は広島の歴史をうつす橋である。−平成18年5月−