佐伯山の卯の花−広島市佐伯区−
 佐伯山 卯の花待てば 悲しきが 手をし取れば 花は散るとも
                             <万葉集>
ウツギ(卯の花) 万葉集に卯の花を詠ったものが24首ある。梅雨空を明るく染め、香りがよい花。清楚な白色の花弁が美しい花である。
 “佐伯山 卯の花持ちし 悲しきが 手をし取りてば 花は散るとも”
 万葉集に詠われた卯の花中、この歌が最も私たちが卯の花に抱くイメージによく似合っているように思う。
 山陽道の旅の道すがら安芸の佐伯で詠まれた歌であろうが、もともとこの付近には佐伯山という山は存在しない。芸藩通史は、・・・蓋し広く佐伯郡の山を称せしにや、土人古江村鈴嶺を、古歌の佐伯山なりと言伝う。・・・とし、佐伯山は、佐伯郡の山を総称した呼称ではないかと指摘する。鈴嶺でも野貝原山でも一向にかまわないのであるが、歌は南の方向に大野瀬戸を望み厳島がみえる山腹で詠われたとイメージしたい。
 さらに歌は、東から西、筑紫方面に向かう官人が山陽道を歩みつつ詠ったものであろうか。旅人の詠歌であるから山は佐伯の山というくらいの意味であったろう。山容に荘重さを感じさせる厳島を背景にすると、卯の花が活きてくる。可憐な花は危うさを秘めて咲いている。愛しい乙女の手を取れば、散ってしまうほど花もまた繊細なものなのだ。
 卯の花はまた、夏の情景をうつす代表花として、明治唱歌の「夏は来ぬ」で歌われている。作詞は佐々木信綱である。和歌史の研究者らしく信綱は、棟(センダン)や橘などの前に卯の花をおいている。
卯の花の匂う垣根に 時鳥早も来鳴きて 忍音もらす 夏は来ぬ 
 卯の花は無臭の花であるが、詞章上の表現として、卯の花の匂う垣根にと表現したところに、信綱の夏がある。きらきらとした初夏の感じをだすには、卯の花にかすかな匂いがあったほうがよい。−平成18年6月−

万葉の花
 万葉集に収載された歌のうち具体の花を詠んだ例が萩(ハギ)132、梅114、橘(タチバナ)53、桜38・・・とずいぶん多い。単に花と表現されたものを加えると集歌中、一割ほどに花がおり込まれているのではないかと思うほど多い。
 山上憶良の歌に次のような歌がある。
萩の花尾花葛花なでしこの花 女郎花また藤袴朝がおの
花    <万葉集 山上憶良 > 
   
オミナエシ
アシビ
 秋の七種の野の花を詠んだものであるが、萩が筆頭に挙げられているは日本人の好尚を受けたものであろう。秋の野に咲く目立たない花であるが、秋の侘しさ、静けさの情感が漂う花として愛でられてきたのだろう。初秋のころから白露を宿すころまで萩の花期は長く、日本人のこころをとらえた花というべきであろう。
 梅は萩に次ぐ114例。梅は中国渡来の花。この中には大宰帥大伴旅人邸で催された梅花の宴に集まった九州諸国の国守等32名全員が梅を詠ったことなどを考慮しても桜より格段に多い。橘も53例ある。垂仁天皇に命ぜられた田道間守たじまもりが常世国から持ち帰ったという伝説の木でタチバナの語源。記紀に輸入のいきさつについて記述がある。橘は梅より早く輸入された。奈良の尼辻に田道間守のものと伝えられる墓がある。垂仁天皇陵の陪塚になっていて、橘を陵に供えてそのまま死んでしまったという田道間守の伝説に真実味が感じられるのもおもしろい。橘は香りのよい木。実も花も木も賞玩された。宮廷においても禁裏の重要な花。紫宸殿の南階の両側を飾り、左近の桜、右近の橘と賞されたのである。禁秘抄によれば桓武天皇の時代から紫宸殿の花は桜と橘であったようだ。
 桜の詠歌は極端に少ない。たぶん単に花と表現された歌中に桜が詠み込まれているからだろう。桜は日本固有の花。サクラは、「咲く」という動詞から変じたという。花といえばサクラであるわけだ。「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」(万葉集 小野老)と詠われたとおり花といえば桜をさしたのである。日本書記神代記の木花開耶姫このはなさくやひめの木花は桜花である。
橘(御所紫宸殿)
美しいものの代名詞としても桜の花は使われた。
 このほか卯花(ウノハナ)、女郎花(オミナエシ)、馬酔木(アシビ)、山吹(ヤマブキ)、薄(ススキ)、躑躅(ツツジ)、栴檀(センダン)など万葉集に収載された花は50種類ほどある。花は、明るく美しく、生活の潤いであるとともに、過ぎ去ったときや人を想う追憶の表象である。
 中国山地には恵まれた自然が残っている。野山を行くと、季節季節の草木に万葉の花を見出すことができる。