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気比神宮と芭蕉−福井県敦賀市曙町− | ||||||||
敦賀市の笙の川の右岸に気比神宮(けひじんぐう)という延喜式内社がある。地元では親しみを込めて「けえさん」の名でと呼ばれるヤシロ。明神大社に列せられ、広く朝野の信仰を集めた鎮守である。明治期に神宮の宣下を受け、気比神宮に改称(以下、「気比神宮」という)。北陸道総鎮守・越前一ノ宮である。
社伝によると主祭神は神宮近くのビュートの天筒の嶺に霊跡を垂れ、降臨したという。そこは聖地(「土公」と称される)とされ、境内に拝所(写真左)がある。 福井県史(資料編)は、主祭神について、大略‘八幡神考に所収せる気比神考によって、イザサワケノ大神は天日矛(アメノヒボコ)なりとの説に従へば、皇后オキナガタラシヒメノミコト(神功皇后)の外戚の祖たる所縁を有する。’と記している。イザサワケノミコトは、新羅皇子たる天日矛とされる渡来人。敦賀が日韓両国の交流の要津であった傍証となり、イザサワケノミコトは案外、敦賀(港)の開港者であったのかもしれない。 さらに、この社の境内に角鹿神社(つぬがじんじゃ。写真上)が祀られている。摂社である。大社格の社では境内に摂社や末社の小詞を祀り、社勢伸長の歴史を黙示するところが多い。気比神宮はこのような摂社・末社中、角鹿神社を含む実に5座が式内社に名を連ねている。気比神宮が崇高な社として位置づけられ、斎き祀られていたことがわかる。 境内社中、角鹿神社の名称‘つぬが’が‘つるが’に通じ、同社は敦賀の祖神。祭神について異説はあるが、社伝は崇神天皇の御世(4世紀ころ)、気比の浦に上陸した任那の皇子・都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)と伝え、併せ角鹿国の統治に当たった政所跡に当社を建て命を祭ったと伝えている。さらに、‘つぬが’の語源について、書記の垂仁紀に、‘額に角がある人が船に乗って越国の笥飯浦(けひのうら。敦賀港)に泊まった。故にそこを角鹿(つぬが)と名づけた、’と地名の伝承譚が記されている。この点について段熙麒(タン・ヒリン)氏は、都怒我阿羅斯等の渡来時の様相が「額に角がある人」のようにみえたので都怒我(つぬが)阿羅斯等の表現をとったもので、実際の名前は阿羅斯等(あらしと)であるといい、 都怒我(つぬが)は角のある王冠の擬態語であると指摘している。任那の皇子・阿羅斯等が冠を着け笥飯浦に上陸した時の‘つぬが’の様相が当地の地名に転写されたというのだ。同感である。同氏は韓国高霊池山洞32号墳から出土した王冠をもって擬態語の傍証としている。まったく言い得て妙な容をした王冠である。類似の王冠が松岡古墳などから出土している。 池山洞32号墳は倭国が任那府(後年の倭館のようなもの)を置いた伽耶諸国中の大伽耶国(任那。高霊郡)に所在し、同古墳から出土した短甲に酷似するものが私市円山古墳(綾部市)から出土している。この地名や阿羅斯等(天日矛)が携えた持ち物の伝承譚及び北陸、山陰地方の古墳出土遺物やそれら地域に伝わる伝説などから阿羅斯等の出自や渡来の背景などが窺われ興味深い。 気比神宮の主祭神イザサワケノミコトの渡来時の様相を重ね合わせると、社伝は真実に近い伝承かと思われる。 さらに、敦賀は平安期に入っても倭国と大陸を結ぶ要津であり続けた。遣唐使廃止にともなって大陸文化の取り入れ口となり、また契丹が興ると渤海国の遣唐使は倭国経由で入唐するようになりその際、渤海国の使節が敦賀港へ入港したり、宋の商人や渡来人等の往来もあった。さながら敦賀は、江戸時代における長崎のような役割も担っていたのである。 平安期には、神宮の神領であった気比の松原に松原客館が設けられた。朝廷はここで渤海国の使節や宋人及びその他の渡来の客人を手厚くもてなし、情報や文化を吸収した。松原客館の検校は気比神宮宮司が務めたことは言わずもがなであろう。 遣唐使の廃止に伴って外交が閉ざされると、敦賀は交易や大陸文化の収集窓口ともなったのである。 松尾芭蕉も奥羽行脚の旅すがら敦賀を訪れ、奥の細道に筆跡を残している。芭蕉が敦賀を訪れたのは元禄2(1689)年8月14日(新暦9月27日)の夕、気比明神(神宮)に夜参している。一葉集に、美濃国に向かった芭蕉一行は9月3日(旧暦)落着の夜と前書きし、大垣で八吟歌仙を出しているので、敦賀には1週間ほど滞在し種(いろ)の浜に舟を走らせることもあった。
芭蕉は、月清しと歌ったようにこの夜は特に天気がよく、宿の主人に明日の夜も天気だろうと言うと、主人は越路の習い、晴れ曇りは計りがたいと言う。果たして雨。
翌16日は種(いろ)の浜に舟を走らせている。 敦賀滞在中、句作に励んだ芭蕉。本文にない句を随分詠んでいて、「昼寝の種」や「句選年考」等に見える。気比神宮境内に芭蕉の像(写真上)が顕彰されている。 敦賀市街のあちらこちらに、芭蕉の句をしるした板切れの短冊がアーケードの支柱などに掛けてあるので、敦賀散策の楽しみにされると良いだろう。−平成25年5月− |