琵琶湖の海に紺碧の空。中空に腹ばう比良の連山に冠雪がきらきらと輝くころ、湖国の火祭りは行われる。‘おこない祭り’と呼ばれるこの火祭りは、守山市内の勝部神社と住吉神社の鎮守が舞台。両社はJR守山駅に近く、駅の西側に勝部神社、東側に住吉神社が鎮座する。ともに、正月の第2土曜日に火祭りは行われる。
祭りの当日。午後8時ころ、住吉神社の境内から‘へいよう、へえよう’と唱えながら、激しく木板を叩く音が聞こえる。火祭りは佳境のようだ。褌ひとつで左手に手松明、右手に桴(ばち)を持った氏子が仮屋の壁際に張り付けた板を入れ替わり立ち替わり‘へいよう、へえよう’と唱えながら激しくうち鳴らす(写真左下)。板を叩きながら氏子たちは、仮屋の隅にいこった火種を手松明に移し、境内の大松明へ点火する機会をうかがう。壮年の男子3人が火種を守る。真っ暗闇の仮屋で、静かなにらみ合いが延々と続き、観衆は大松明へ点火されるその時を厳寒の境内でひたすら待つ。仮屋から‘へいよう、へえよう’の連呼が続く。
おこない祭は近畿地方やその周辺部で広く行われる祭りである。五穀豊穣、無病息災を祈る祭り。仮屋で 唱えられる‘へいよう、へえよう’の囃子は、‘平癒、平癒’ともきこえ氏人への無病息災を祈る呪文のようにも思われる。おこない祭の起源を修生会或いは修二会に求める者や仁王会に求める者がいるが、年初めに五穀豊穣などを願う祈念祭や郷飲酒礼(郷の年寄を集めて飲酒し、尊老養老の道を養う)の儀礼など古来の行事に、仏教行事が複雑に影響し合ったものだろう。さらに、地元守山には三上山に潜む俵藤太秀郷のムカデ退治伝説があり、それに派生する火祭りの起源説や、湿地に潜み人々を苦しめた毒蛇が勝部神社の霊験により滅し、その頭部、胴体、尻尾を大松明で燃やしたなごりを火祭りの起源とし、毒蛇の頭部を浮気(住吉神社)、胴体を勝部(勝部神社)、尻尾を瀬田の各社で燃やすのだという伝えもある。当地の火祭りは他所のおこない祭りとはぜんぜん異なるものだ。瀬田の火祭りは廃れたが、勝部、浮気の守山2社における火祭りは廃ることなくいまに奇習を伝えている。奇祭である。
‘へいよう、へえよう’。住吉神社の火祭りはいよいよ佳境に入る。仮屋の火守りの一瞬の隙をつき‘へいよう、へえよう’と連呼する氏子の手松明に火が移り、仮屋を勢いよく飛び出す氏子(写真右下)。大松明に点火が始まる。二人、三人と仮屋から飛び出び出した氏子によって次々と大松明に火が放たれる。爆音をたてながらめらめらと燃えあがる松明の火が冬の夜空を明々と焦がす。松明は榛の木に青竹を縛り付け、縄を四八巻きにして、先端部に突起がしつらえてある。昔は頭部を菜種殻で作り、松明の先に稲藁を積み上げていたようである。今日、菜種の栽培が廃れ、勝部神社においてのみ神事用に特別に栽培された菜種殻が用いられるという。ともあれ、両社の氏子によって年明け早々から大松明作りが行われ、正月8日(現在は1月の第2土曜日)の祭り当日を迎えるのである。
住吉神社の本祭の日は、和装の知新連中(15〜34歳)と羽織、袴に身支度した神事衆(35歳以上)がそれぞれの宿に参集。午後6時半過ぎに宿を出て、手松明と太鼓桴(ばち)を持ち鳥居前に参集。総員、三十数名ほどが整然と列をなし、途中太鼓を叩き、舞殿を一周。神事の後、仮屋入りし、「祝言の盃」の儀が行われる。いわゆる饗応の儀であり、郷飲酒礼の風を伝えるものだろう。続く大松明の儀に先立って、御老院(神事衆)への役付けが申し渡されると、仮屋の火が消える。真っ暗闇のなか全員が褌ひとになって‘へいよう、へえよう’と唱え祭りは佳境に至るのである。古色をとどめる故国の奇祭のひとつであろう。
勝部神社の大松明は12基。厄年のものが寄進する風もあって20年ほど前、27基の大松明がそろった年もあったという。大松明が宮入りし、松明が燃え上がると、氏子たちは鉦鼓を打って‘へいよう、こーよう’と狂喜乱舞する。勝部の火祭りもまた奇祭といえる。−平成22年1月9日−
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