大津事件−大津市京町2丁目− |
明治24(1891)年5月6日、難産の末に第一次松方正義内閣が成立した。直近にロシアのニコライ皇太子、甥のギリシア王子ジョルジュの来日を控え、山県有朋は総理大臣を辞任。伊藤博文が後任を固辞し、結局松方正義が首相兼蔵相に就任。山県有朋内閣の全閣僚の留任を求めての船出であった。
海の彼方からシベリア鉄道建設の槌音が聞こえ東方進出をもくろむロシアの皇太子の訪問は、当時の複雑な国情ともからみ、松方内閣は発足当初から大きな試練にたたされた。折りしも来日中のロシア皇太子に災難がふりかかったのは松方内閣発足から5日目だった。滋賀県大津市の京町界隈(写真左)をニコライ皇太子ら一行が巡行中、巡査津田三蔵がサーベルを抜き皇太子に切りかかり傷を負わせる事件が起こったのである。世にいう「大津事件」である。大騒ぎとなって、天皇が慰問に駆けつけた。5月12日に松方首相は山田顕義法相並びに伊藤貴族院議長らと会合の上、犯人に対し皇室に対する罪を適用する方針(大逆罪)をまとめ、首相は児島惟謙(いけん)大審院長(今の最高裁長官)を招いて意向を伝える。これに対し惟謙は、5月19日、謀殺未遂罪とする意見書を首相らに提出。5月27日、大津地裁で開かれた大審院法廷において、裁判長に大審第二部刑事部堤正巳が任命され、特別法廷が開かれた。津田に下された判決は、検事総長三好退蔵の死刑の論告に対し、謀殺未遂罪を適用し無期徒刑であった。
町屋の面影がのこる大津市京町2丁目の一角に、「此附近露国皇太子遭難之地」の石碑が建っている。−平成20年−
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