鬼室集斯(きしつしゅうし)のこと−蒲生郡日野町小野− |
鬼室神社遠景 |
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鬼室神社 |
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鬼室集斯の墓 |
近江の日野町小野(この)というところに鬼室神社が鎮座する。綿向山(標高1110メートル)の西麓にあって尾根の狭間に拓けた風光明媚なところである。神社はもともと西宮神社(古くは不動堂)と呼ばれていたようであるが、神社の裏手に石祠(鬼室集斯の墓石を祀る)があり、鬼室神社と呼ばれるようになったようである。
鬼室集斯は百済が滅亡し、本邦に渡来した帰化人。天智朝に仕え学職頭(ふみのつかさのかみ)になった人物である。
日本書紀から渡来の事情をたどると、中大兄皇子(後の天智天皇)の称制2(663)年8月、日本軍は白村江において唐・新羅の連合軍に破れ朝鮮半島から撤退する。同年9月、佐平自余信や佐平鬼室集斯など百済国の高官が農民とともに本邦に大挙して渡来し、後に高句麗から渡来した遺民をあわせるとその数は6千人とも1万人ともいわれる。
天智称制4(665)年2月、朝廷はまず400人の遺民を近江国神前郡に住まわせ、翌3月に田を給している。
天智称制7(668)年3月近江遷都がおこなわれ、同年7月中大兄皇子が皇位につき天智天皇となる。翌天智8(669)年12月、日本書紀は「・・・佐平自余信、佐平鬼室集斯(きしつしゅうし)等男女700余人を以て、遷りて近江国蒲生郡に居らしむ。・・・」としるしている。百済の佐平自余信、佐平鬼室集斯ら男女700余人を蒲生郡に遷居させたのである。
鬼室集斯は、新羅に攻められ本邦に援軍支援などを要請し、最期は百済国の内訌によって斬られた鬼室福信(大韓民国扶余郡恩山面所在の恩山別神堂に奉祀)の子とみられる。集斯が天智10年に小錦下の冠位(官位26階の12番目)を得たのは、父親福信の功労への評価とまた自身が学頭職に処せられており、特別に有能な人物であったからだろう。
集斯が渡来後、天智8年に蒲生郡へ移住する間、集斯がどのような処遇を得ていたのか書紀はしるしていない。たぶん、百済と本邦の位階制の違いからみなし冠位の調整乃至は冠位授与後の遷居地や随伴農民の選定などに4年近くの時間を要した事情からだろうか。
近江の蒲生郡に落ち着いた鬼室集斯や百済の農民の生活ぶりは知るよしもないが、近江平野の開拓に当たったことは間違いがない。小野集落は尾根に沿ったなだらかな傾斜地に開け、処々にため池が築かれ、延々と続く田が美しい。その美田の中に鬼室神社(写真下)は鎮座する。−平成28年1月− |
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