大阪
ああ 大和川−柏原市等−
 大和川は奈良盆地のほぼ全域を流域面積にして、大阪との県境にあたる亀の瀬の狭隘な頸部を貫き、南大阪平野に口を開くと、葛城、金剛の山地から流れ出る石川、西除川などの支流を併合し、大阪湾に注ぐ川である。大和と河内を潤して農工業や上下水道など水資源の供給において、大和川は淀川と双璧の河川であり、またこの二つの川に刻まれた古い歴史は、単に畿内にとどまらず、わが国の上代の歴史を滔々と湛えて流れる川である。
 すなわち、大和川の流域であるこもりくの初瀬の川辺、三輪に大和朝廷のうぶ声を聞くことができるし、飛鳥時代に聖徳太子が示した対中国政策に驚いた隋の煬帝が遣わした裴世清が遡り、金屋で降り立ったところは大和川だ。佐保川も明日香川も曽我川も、竜田川ももみな大和川の支流をなしている。亀の瀬を下れば、大和川とその支流石川に抱かれた古市などの地域に仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭の6人の天皇陵や皇后、皇女の諸墳墓が散在する。大和川流域は、4、5世紀の日本の形成に深くかかわったところ。応神天皇を日本の最も古い王となし朝鮮半島に雄飛し、その母神功皇后を卑弥呼に当てる者もいる。西文氏や田辺氏など文筆をもって朝廷に仕えた史や舟運を差配した船氏など帰化人が住まいし、ときには大和川や石川河畔でその子弟らが歌垣を演じたことであろう。巨大墳墓や大溝の築造或いは芸術、文化に至るまで帰化人の新しい知識、技術によって裏打ちされた天皇の力は、他豪族に対し圧倒的な優位性を示し、その流域は都邑をなしていたことであろう。そのような、大動脈大和川を押さえた者が天皇家、皇室であった。聖徳太子が法隆寺と四天王寺に伽藍を築き、7世紀に至るまで南河内には推古天皇や聖徳太子の陵墓が造り続けられたのである。
 大和川は、河内において、江戸時代中ごろまで幾筋もの分流があり、池沼をなしその支流のひとつが石川の少し下流辺りから北西に流路を変え、草加江に入り大阪城の東方で淀川に合流していたのである。土砂の堆積によって大和川は天上川をなし、しばしば洪水に見舞われた大和川の治水事業は仁徳天皇の時代から始まり、流路の浚渫を行ったり、摂津職に就いた和気清麻呂は天王寺付近から海に直結させる方法を発案したが何れも成功しなかった。将軍徳川綱吉の治下、たび重なる洪水によって大和川改修問題が再燃。現在の東大阪市今米にいた庄屋九兵衛が同市石切にいた庄屋三郎右衛門と図り柏原市から直に西流させ海に通じる新川建設に奔走したが、地元民の反対に遭い三郎右衛門は狭山池に身を投じた。この後も九兵衛の三男甚兵衛らは石切にいた庄屋曽根三郎衛門と協力し、天和3(1683)年、遂に幕吏の視察が行なわれるに到った。しかし、稲葉石見守等が河村瑞賢を伴って視察した結果、水害の原因は河口部にあるとの結論であり、古来の手法に優るものでなかったようだ。甚兵衛らの新川建設運動は粘り強く行われ、大阪代官万年長十郎の理解によって新川建設を幕府に上申。遂に幕府は元禄16(1703)年、新大和川建設の施工命令を発出し、九鬼隆雄(三田城主)、松平正常(明石城主)、植松家貞(鷹取城主)等に助役せしめ翌宝永元(1704)年にかけ大和川の付け替えが行われ今日の姿となったのである。
 柏原市役所近くの大和川堤防道路の片隅に中甚兵衛が顕彰されている。大和川を指差す甚兵衛が求めたものは、治水による人々の安全と繁栄であろう。−平成19年11月−

大和川
(二上山をのぞむ)
中甚兵衛