秦河勝−寝屋川市川勝町− |
淀川の左岸地、寝屋川市に川勝(かわかつ)、秦(はた)、太秦(うずまさ)という町が接して所在する。タチ川と北谷川が合わさって寝屋川をなす。その少し下った右岸の丘陵地の一角が川勝町。秦河勝(はたのかわかつ)の墓が(写真左)ある。そこは、9メートル四方の土壇上に、後世のものと見られる五輪塔が建ち、河勝の墓標としている。東に生駒山地、西に摂津山系を望む見晴らしのよいところ。しかしいま、四面に住宅が建ち並び僅かな緑が河勝の永眠地を示すばかりだ。
秦河勝は日本書紀によると、聖徳太子の信任を得た舎人。推古11(602)年、太子所有の仏像を授けられ、山城国に蜂岡寺(広隆寺)を造立し、仏像を安置したことで名がある。山城国葛野の生まれ。秦始皇帝の後裔と称しているが系譜は不詳。日本書紀に、応神14年、秦氏の祖弓月の君が百済から120県の人夫を率いて日本に帰化しようとしたが、新羅人が邪魔をするので加羅に留まっていると奏したので、朝廷は葛城ソツ彦を加羅に使わした。しかし3年経っても戻ってこなかった。そこで、朝廷は、翌々年に平群木菟宿祢らに精兵をつけ加羅に赴かせ、弓月の人夫とソツ彦をつれ帰還させたという記事である。百済記の382年の記事にも葛城ソツ彦と平群木菟宿祢の加羅にまつわる同曲の記事がある。秦氏はこのころ、
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細谷神社(鎮守) |
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王仁の帰化と相前後して朝鮮半島から多くの民とともに日本に渡来した。
王仁、弓月の君は古い時代の帰化人の双璧。王仁の後裔が古市(羽曳野市)に留まったのに対し、弓月の君の後裔である秦氏、秦人の分布は、続日本紀、本朝月令、寧楽遺文、戸籍断簡などによると、その分布は山背、河内、近江、摂津、大倭、豊前、伊予、播磨、美濃、尾張、土佐、周防、讃岐、越中などほぼ日本全土に及ぶほど広範囲であった。また、太秦の地名伝説から秦氏は初め養蚕や機織を生業とした人々であったと思われる。
近江国愛智郡は秦氏が入植し、農業文化が花開いたところだった。今の滋賀県愛知郡内に6〜7世紀に築かれたとみられる「八之塚古墳群」(愛東町)や金剛寺野古墳群」(愛荘町)が所在する。古墳中に朝鮮半島から伝わった階段式の竪穴系横口式石室を備える古墳が確認されている。当古墳群などは秦氏の繁栄を示すモニュメント。大日本古文書第16巻に近江国愛智郡少領に秦大蔵忌寸廣男という人物の名がみえ、秦氏は地方に土着して力を蓄え、古墳の被葬者となった者もいたのだろう。
一方、秦河勝などは各地方に散在し、機織を生業とするする技人の統括者として力を蓄え、伴造(とものみやつこ)として朝廷に仕えた。地方首長として成長した者と中央にあって伴造として栄える秦氏がいたのである。このように秦氏は他の帰化人と異なり、多方向に発展した氏族であった。大化の改新を経て、時代の遷移とともに秦氏はやがて帰化人としての特色を失い、王仁の後裔と同様に中流貴族に甘んじ、また秦人として官僚機構に組み込まれていく。
法王帝説などによれば秦河勝は川勝にもつくる。その川勝、秦、太秦が三点セットで所在する寝屋川は、早くから秦氏が住みついたところだった。寝屋川の川沿いに細屋神社、丘陵地には加茂神社が所在する。前者は延喜式内社である。神社名の「細」は「星」の音から転化したものか。交野、枚方辺りに残る七夕伝説にも似た渡来文化の息吹が感じられる社である。神社には、境内の木を切ったり草を刈ったりすると腹が痛くなるが、秦と太秦の人だけは痛くならないという古伝がある。もともと当社は秦氏によって祀られた星座信仰の一端を物語ってはいないか。京都の例をひくまでもなく賀茂(加茂)神社と秦氏との縁は深い。京都盆地或いはその周辺部における開拓の歴史と深い関係がある。寝屋川の加茂神社は京都乃至奈良辺りのカモ神社から勧請されたか、或いは開拓の原初形が寝屋川にあって、淀川を遡り京都(山城)に到ったのかもしれない。
細谷神社周りの水田でカルカモがのんびりと水草を食んでいる。きらきらとした水面にうつる鎮守が秦氏の残影のようにもみえる。−平成21年6月− |
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古墳公園(滋賀県愛荘町) |
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