藤原家隆のこと−大阪市天王寺区夕陽丘町− |
下紅葉かつ散る山の夕しぐれねれてやひとり鹿の鳴くらむ
<新古今和歌集> |
大阪市天王寺夕陽丘町の勝鬘院の北隣に藤原家隆の廟所がある。藤原定家とともに新古今和歌集の選者の一人である。後鳥羽院の信任を受け和歌所の寄人となり、建仁元(1201)年院宣を得て定家ら4人とともにその撰に当たり、元久2(1205)年成立をみている。家隆48歳。八大集最後の勅撰和歌集であり、和歌所で勅撰されたものである。
それは、万葉歌人などの古歌よりその時代人、とりわけ選者の歌に重きが置かれている。編成に後鳥羽院の意向をうかがわせるところだ。定家は名月記に上皇の作歌について、「凡そ言語道断、今に於いては上下更に以って及び奉る可き人無し。毎看不可思議、感涙禁じ難き者也」と最上級の賛辞を贈り、また新古今和歌集が成立して以降、上皇自身によってしばしば撰集の切継が行われており、それは後鳥羽上皇の撰集ともいうべきものである。
家隆は定家より4歳年上。時の摂政藤原良経に「家隆は当世の人麿なり」」と激賞され、後鳥羽上皇の和歌指南役に推挙された経緯もあった。叙景歌を得意として、家隆の歌には寂寥感が漂うものが多い。冒頭の下紅葉の歌などはその典型であろう。従二位宮内卿に昇任した家隆は、嘉禎2年(1236)年剃髪し仏性と名乗り、天王寺の西北辺に夕陽庵を結び住まいした。後鳥羽上皇が承久の乱(1221年)によって隠岐に流されたあとも思慕の念を断ち難く、難波の地に隠棲したものか。家隆はその生き方においても、定家とは好対照であった。定家は14歳で侍従に任じられた公卿殿上人であったが殿上において少将雅行と口論の末、脂燭で雅行の顔面を割り殿上人を除籍される事件を起こし、父俊成を嘆かせた。反省悔悟して勅勘が解け、再び任官を得て従三位に昇任し公卿の列に入ったのは建暦元(1211)年である。参議となって父を越えるも権中納言の除目は歓喜4(1232)年、すでに還暦を過ぎていた。後鳥羽上皇の落飾のあと、定家は天福2(1234)年、独撰で新勅撰集を奉覧しているが、和歌をよくし承久の乱で遠島になった後鳥羽上皇と順徳上皇の御製の扱いに窮して結局、関東武士の作歌をそれに替えている。権勢に媚び基本を失った歌集は八十川集の異名を得たのであった。このあたりに定家の焦燥と限界を感じるが、少将雅行への暴行事件が定家の政治的規範意識にかくも大きな影響を与え続けていたのであろう。
家隆の墓所近くに陸奥宗光とその父伊達宗広(千広)の墓がある。千広は紀伊の国学・歴史学者であり、家隆の風壊を慕いその遺跡顕彰に尽力した人物であり、遺言をしてここに墓を設けた。またその宗光もまた遺言をして、父の墓所脇に自らの墓所を営んだのである。宗光は不平等条約の撤廃(日英通商航海条約)と平等条約(日墨修好通商条約)の締結をともに実現させた明治の政治家である。
家隆の墓所は上町台地の南端が大阪湾に落ち込む際にある。極楽浄土の東門といわれた天王寺の石の鳥居にも近い。この台地から、家隆は夕陽を拝みつつ80歳をもってこの地に薨じたのである。−平成20年6月− |
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