観心寺−河内長野市寺元− |
後村上天皇桧尾陵へつづく日当たりのよい参道の斜面で、ヤマジノホトトギス(写真左)が風に揺れている。牛滝堂の萩もこころなしか赤みを増し、塔頭の格子辺に咲く萩が秋の移ろいを障子にうつしている。梅林の石畳沿いに彼岸花が咲いている。・・・桧尾山観心寺境内の初秋の風景である。
今日は二度目の観心寺参詣。時は春。献茶祭が催され、参道は会場に向かう人で華やかである。
観心寺の草創は役小角と伝えられ、はじめ雲心寺と号していたが、弘法大師が当寺を再興してから観心寺と呼ばれるようになったという。観心寺は本尊如意輪観音でよく知られた南河内の古刹。壮大な伽藍は天長4(827)年、弘法大師からその弟子実恵に譲られ、基礎が固められた。
寺は金剛山の東麓に所在する。そこは奈良、熊野に通ずる交通の要衝といってよく、千早赤阪にも近く楠正成の学問所ともいわれる。後醍醐天皇が吉野に南朝をおこし、楠正行らの勧めで後村上天皇が塔頭のひとつ総持院を行宮と定め、政務をとったこともあった。後村上天皇が住吉大社で没後、当山に陵が築かれたのもそうした縁からだろう。塔頭中、中院は正成の祖父正晴の建立にかかり、正成、正行が寓居し修行を重ねたところと伝えられる。
金堂は7間4間、向拝3間、入母屋本瓦葺の建物。高い基壇上で、緩やかな屋根勾配が向拝の先まで続く。この美しい曲線を持つ建物は、和様でも唐様でも天竺様でもない一派をなす古建物である。淳和天皇の建立であるが、後醍醐天皇が外陣の再建を行う等の整備がなされている。境内の茅葺屋根の建掛塔、阿弥陀堂などみなよい雰囲気があり、佇むに時間を感じさせない。
境内地の霊宝館で古仏が公開されている。溢れんばかりの仏像は二十数体にも及ぶ。境内の鎮守社や七星塚も見逃せない。−平成19〜20年− |
|
|