大阪
野崎観音−大東市野崎2丁目−
野崎まいりは 屋形船でまいろ どこを向いても 菜の花ざかり 粋な日傘にゃ 蝶々もとまる 呼んでみようか 土手の人
野崎まいりは 屋形船でまいろ お染久松 せつない恋に 残る紅梅 久作屋敷  今もふらすか 春の雨
野崎まいりは 屋形船でまいろ 音にきこえた 観音ござる お願かけよか うたりょか滝に 滝は白絹 法の水<野崎小唄>
 江戸時代、大阪人の野崎参りは一種の熱病のようにひろがった。天満の京橋たもとの八軒屋あたりから屋形船を仕立てて、寝屋川を遡り、或いは陸路を往く人の群れは野崎観音に向かった。毎年5月1日から10日に催される無縁経法会の縁日がいわゆる野崎まいりで知られる大阪の年中行事だ。野崎観音は福聚山慈眼寺という曹洞宗の寺。山城の地蔵院に属する寺である。本堂に十一面観世音菩薩を安置する。行基の作と伝えられる。開創がわからないほど寺は古く、裏山に奉安された永仁2(1294)年在銘の九重層塔がわずかに寺の古い歴史を語るのみである。
 今日、交通機関の発達によって屋形船や徒より詣でることはなくなったが、野崎まいりは屋形船など舟便と陸行とがあった。「観音様をかこつけに逢いに来たやらみなみやら」「二人一緒に添おうなら、飯もこうし・・・・」の名せりふできこえた近松半二の新版歌祭文でお染と久松が舟と駕籠で別れ別れにゆく幕切れは、そうした参詣の実情をよくあらわしている。境内にお染久松の供養塔がある。舟と徒とで野崎まいりの人々は、舟と陸との間で、罵り合って勝ち負けを競うのも野崎まいりの楽しみであった。野崎参りが悪口祭ともいわれる所以である。野崎まいりを詠じた頼山陽の漢詩に、「・・・・舟中堤上呼相答 十里菰蘆」というのがある。罵声をかけあう光景は、山陽の興味をそそるものであったに違いない。寺の十六羅漢もよく知られている。−平成20年3月− 
野崎観音(本堂) 九重層塔