大阪
水無瀬宮−三島郡島本町広瀬3丁目−
 淀川の右岸、大阪、京都との県境に水無瀬宮(写真左)という後鳥羽院ゆかりの神宮がある。神宮はもと院の離宮があったところで、「増鏡」にその情景が写されている。「・・・(後鳥羽院が)しばしば通いおわしましつゝ春秋の花、紅葉につけても御心のゆくかぎり、世をひゞかして遊をのみぞし給ふ、所がらもはるばると川に臨める眺望、いと面白くなむ。・・・見渡せば山もとかすむ水無瀬川、夕べは秋となむ思いけむ・・・」としるされている。観月の夕に、狩猟に、桜狩によくお供したのは水無瀬信成、親成父子であった。後鳥羽院の生母七条院の里方は藤原氏北家の水無瀬家。後鳥羽院は隠岐に配流の後、水無瀬父子に遺詔(御手印御置文)を残されたのだった。
 承久の乱(1221年)は、後鳥羽院が主導した鎌倉幕府との戦。北条政子の智謀によって、あっけなく鎌倉方が乱を制し、後鳥羽院とその御子2人を配流に処したのであるが、戦は武家政権の存立を強固なものにし、天皇親政が後退しわが国に封建社会(中世)が定着していくようになった点につき、アジア諸国とは別のむしろヨーロッパに近い歴史を歩むことになったのである。
 源実朝の死によって幕府が動揺すると、政子は御家人とはかり皇族将軍を迎えようとする。これを拒否した後鳥羽院。後鳥羽院が挙兵し、両者の激突に至ると政子は、鎌倉殿重代の御家人を召集し、頼朝の恩義を説き、去就は御家人に任せた。有力御家人で離反する者はほとんどなく、承久3(1221)年6月15日、鎌倉方は5千の兵を率いて京を陥れ、後鳥羽院は隠岐へ配流となったのである。院は隠岐へ行く途中、城南の鳥羽殿で落飾し、烏帽子姿の俗体を写させそれを生母七条院に贈り、水無瀬宮で一夜を明かし、隠岐島へ遷られたのである。暦任2(1239)年、60歳で崩御。島での生活は増鏡に詳しい。
立ちこめて 閨とはならで 水無瀬川 霧なほはれぬ 行く
すゑのそら  (後鳥羽院)