金剛寺−河内長野市− |
大阪の南部に河内長野市がある。東に金剛山、南に葛城山が控え、奈良、和歌山両県に接し、古跡や自然に恵まれたまちである。
当地は南朝の本営地吉野に近く、背後の山塊を要害にして、出退を窺った行宮の古址も多いところだ。洛中の華やかな社寺もよいが、そうした行宮が営まれた金剛寺、観心寺などの名刹もまた捨てがたい。
源頼朝或いは、北朝を擁立し南朝の敵方となった尊氏(足利家)の祖八幡太郎義家も、もとは河内(河内源氏)を本拠とした武将である。 そうした武門の故郷である河内、泉州、摂津の争奪戦の様相を呈した南北朝時代は数十年間も続いた。
金剛寺は聖武天皇の勅願寺で、行基の草創と伝えている。永万年間(12世紀)には後白河法皇の勅旨があって食堂、宝塔などが整った。天野山の名で知られた古儀真言宗御室派の寺である。寺は後醍醐天皇の系統である大覚寺統の八条院領であり、もともと皇室と関係が深く、八条院ワ子内親王の女官大弐局が二代目の寺主、その妹六条局が三代目寺主になっている。寺は俗に女人高野といわれる。これは、尼僧の寺主が現れ、女性の参詣を許した名残りの呼び名であろう。南朝は正平3(1353)年3月、後村上天皇の行幸があり、同9年10月から6年間、金剛寺魔尼院を行宮としている。伽藍中、多宝塔は3間2層、桧皮葺で大塔の雰囲気がある。楼門や後村上天皇縁の観月亭などもよい雰囲気がある。寺域は広く楼門前の道を川沿いに行くと、観蔵院、中院などがある−平成20年− |
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楼門 |
金堂 |
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